サントリー1万人の第九サントリー1万人の第九

サントリー1万人の第九のつくりかたサントリー1万人の第九のつくりかた

あの感動を皆に味わってもらいたい
下村郁哉さんインタビュー

「サントリー1万人の第九」の東京クラスが開設された2003年から合唱指導を担当してきた下村郁哉さん(63)。その分かりやすく熱のこもった指導で絶大な信頼を寄せられている下村さんに、合唱指導を担当するようになったきっかけ、1万人の第九の魅力について語ってもらった。【構成・西田佐保子】

「1万人の第九が僕を変えてくれました」と語る下村郁哉さん=西田佐保子撮影

佐渡裕さんに興味があった

「1万人の第九」東京クラスが新設されたのは、第21回公演が行われた03年です。東京都墨田区で開催される「国技館5000人の第九コンサート」事務局長だった故・石井貞光さんが、毎日放送の山川徳久さんから「誰かいい合唱指導者はいませんか」と相談を受け、僕を推薦してくれたのがきっかけです。「大きなチャンス。自分に足りないものを持つ佐渡裕さんに出会える!」と二つ返事で引き受けました。

実際、佐渡さんとの出会いで僕の音楽観は変わりました。「子供から、おじいちゃん、おばあちゃんにまで、音楽の素晴らしさを伝えなさい」と、神が彼をこの世に送り出したのではないかと最近感じています。才能のある日本人指揮者は数多くいるし、それぞれ個性も違う。佐渡さんは、日ごろ音楽に慣れ親しんでいない人をも「その気」にさせ、興奮させるエネルギーやパフォーマンス、何より1万人を束ねる力を持っています。会社員も大工も医者も、第九を歌う上では平等です。たとえアマチュアでも一人一人が「自分の第九」を歌い上げる。それが1万人の第九です。

僕は40年間、約160団体で第九の合唱指導を行ってきて、世界のさまざまな鬼才の下棒(したぼう=オーケストラや合唱団の練習指揮者)も経験したけれど、やはり佐渡さんという人は計り知れない。だから、彼が表現したいハーモニーに近づけるよう指導しています。僕のレッスンは厳しいと言われることもあるけれど、それは違います。「きっちり」やっているだけです。「アマチュアだからこの程度でよい」なんてことは決してありません。

感動は簡単には手に入らない

ベートーヴェンは、作曲家にとって命とも言える聴覚を失いました。どれほどの苦しみでしょうか。それでもあれだけの素晴らしい作品を残した。人間愛や家族愛など、彼の曲にはメッセージがあります。第九の中に「すべての人は兄弟になる」という詩がありますが、彼はまさに、それまで王侯貴族のためにあった音楽を「開放」し、人類すべてのための音楽へと変えました。

第九は人生そのものです。東京クラスの合唱団員の中には、1万人の第九に参加して人生が変わった人がたくさんいます。1万人が声を合わせて第九を歌い上げる。そんな非現実的な空間がこの世にあると誰も想像できないじゃないですか。だからこそ、年齢性別関係なく、たくさんの人が涙を流します。感動は簡単には手に入りません。「参加してよかった」「練習してよかった」「自分を褒めてあげたい」「佐渡さんもよかった」「みんなもよかった」。努力したからこそ、興奮して、感動して、感謝して、すべてにひざまずく。自分が優しくなると、皆にも優しくなる。まさにこれこそ、ベートーヴェンが第九に込めた思いです。

僕を変えてくれた1万人の第九

サントリーの元会長、故・佐治敬三さんは、1万人で第九を歌うという「とんでもないこと」をはじめて、それから34年間、サントリーさんが協賛して、毎日放送さんが企画・放映して、1万人の第九は現在まで続いています。普通、同じことを続けるとマンネリ化しますよね。それが毎年、1万人を超える希望者が応募して、抽選発表日までドキドキ約1カ月過ごす。すごいことです。指揮者、オーケストラ、ゲスト、舞台演出家、すべて一流のプロ集団の手によるものだからこそ実現できる、非常にぜいたくなイベントだといえます。

家庭や仕事の事情や健康上の問題などで、1万人の第九に1回しか参加できない人もいます。1万人、それぞれの生活がある。だからこそ毎年、参加者全員が、幼稚園児レベルから大学を卒業して社会人レベルにまで成長することを目標に指導しています。皆さん、確実に上達していきますよ。回を重ねるごとに、顔つきや声が変わってくる。最終レッスン日には、「あなたたちは努力したから、佐渡さんの指揮で歌う権利があります。大阪城ホールいっぱいに響き渡る声で高らかに歌い上げなさい」と言って、本番に送り出します。

体を作ってレッスンに挑む

僕は今年で63歳です。5月に指揮者生活40周年の記念コンサートを開催しました。佐渡さんもよく言われますが、「人間は捨てたものではない」。歌が下手でも、練習を重ねると変わっていきます。1万人の第九は自分が変わり得る経験です。実際、音楽家として、人として、僕を変えてくれました。それだけの魅力があります。皆が感動を共有して、歓喜の涙を流す。エネルギーや勇気をもらいました。合唱団メンバーの人生を変えるには、僕自身も変わらないといけません。真っ正面から皆さんと向き合う必要があります。それができなくなったら、僕は降りる。それだけの覚悟をもって、本気で指導しています。

まだまだ音楽家として未熟なところがあるので、日々勉強です。体を鍛えて、体調を整えて、精いっぱい指導して、大阪城ホールに皆を連れて行く責任が僕にはあります。あの感動を味わってもらいたい。これから先、何年合唱指導を続けられるか分かりませんが、2年後、5年後の将来を楽しみにできるのも、1万人の第九のおかげです。皆さんが喜んでくださるのであれば、元気なかぎり、合唱指導し続けたいと思います。

毎日新聞ニュースサイト
「クラシック・ナビ」に2016年掲載
http://mainichi.jp/classic/

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