「やってみなはれ」で始まった
歓(よろこ)び、その不思議な力は、時の流れが引き裂いていたものを再び結び合わせる。そのやさしい翼に抱かれてすべての者は兄姉になる。(フリードリッヒ・フォン・シラー「歓喜に寄せて」より、訳・編集:サントリー1万人の第九事務局)
ベートーヴェン「交響曲第9番」、通称「第九」。すべての人々への愛と平和への願いがつづられたシラーの詩「歓喜に寄せて」を歌詞に引用した第4楽章「歓喜の歌」は、日本で最も親しまれているクラシック音楽の一つであろう。1983年にスタートし、今年で34回目となる「サントリー1万人の第九」は、文字通り全国から1万人が集まり、大阪城ホールで第九を歌うイベントだ。今年も12月4日に、佐渡裕指揮「歓喜の歌」を共に歌い上げる。「音楽以上の音楽がある」と佐渡が評する「1万人の第九」、その歴史や参加者の思い、コンサート当日の舞台裏などを“同時進行”で紹介していく。第1回は、「サントリー1万人の第九」のチーフプロデューサーである毎日放送の山川徳久さんに、イベントがスタートした背景や変遷について語ってもらった。【構成・西田佐保子】
大阪城ホール設立のイベントとしてスタート
「世界都市・大阪」の創生を目的とした「大阪21世紀計画」の一拠点として、また大阪城築城400年を記念して、大阪城ホール(大阪城国際文化スポーツホール)が1983年に建設されました。そのオープニング企画の一つとして同年にスタートしたのが「サントリーオールド1万人の『第九』コンサート」です。
東京オリンピックの開催や東海道新幹線の開通など、経済の発展を象徴する出来事を経て、70年には大阪万博(日本万国博覧会)も大成功を収め、大阪では国立民族学博物館の館長だった梅棹忠夫さんや作家の司馬遼太郎さんなどの知識人らを中心に、文化行政のありかたが語られるなど、「東京に負けないように大阪からも文化を発信しよう」という機運が高まっていました。全国的にも芸術センターの設立を求める動きが活発になり、大阪城ホールの他にも、82年にはザ・シンフォニーホールが、東京では86年にサントリーホールが設立されました。
このような背景のもと、大阪城ホールで行う文化的イベント企画の一つとして挙がったのが「1万人の第九」です。このアイデアを、当時、事業本部長で後に代表取締役社長・会長となる毎日放送の斎藤守慶(もりよし)が、サントリー代表取締役社長だった佐治敬三さんに話したところ、「やってみなはれ」と賛同してくださり、サントリーの協賛を得られました。これが全てのはじまりです。
1万人の第九と同時期にスタートした御堂筋パレードや大阪コレクションなどは、現在開催されていません。1万人の第九は、大阪市からの後援はあるものの、サントリーと毎日放送、あとは入場料、合唱団の参加費(スタート当初は無料で、現在は大人が9300円、小中学生が4000円)で成り立っています。公的な資金が投入されなかったからこそ、緊張感をもって、現在まで続けてこられたのかもしれません。
朝比奈隆さんが推したのは山本直純さんだった
「1万人で歌う第九を誰が指揮するか」は極めて大きな問題の一つでした。第1回(1983年)から第16回(98年)の構成・総監督・指揮は山本直純さんに務めていただきました。実は、最初に当時大阪フィルハーモニー交響楽団の指揮者だった故・朝比奈隆先生に指揮をお願いしたところ、「そういうことならば、山本君しかいないよ」とおっしゃり、山本先生のところに伺うと、「やりましょう」と快く引き受けてくれたという経緯があります。観客にも楽譜を配り、クライマックスで合唱に参加できるようにしたのも山本先生のアイデアです。16年間、指揮を続けてくださった山本先生の功績は非常に大きいものと言えます。
21世紀を目前に、1万人の第九も世代交代をして新しい指揮者を迎えることとなりました。当時のプロデューサーの加藤美子が「1万人の合唱団を相手に音楽を作ることのできる人はこの人しかいない」と選んだのが佐渡裕さんです。
先行して、佐渡さんの企画・指揮による、子供たちに分かりやすく音楽の楽しさを教えるための「佐渡裕ヤング・ピープルズ・コンサート」の企画を進めていた、営業局の竹田青滋(せいじ)と加藤の2人で、当時佐渡さんが住んでいたパリに押しかけましたが、最初は「絶対嫌だ」と断られました。1万人の第九を単なるイベント的なものだと思ってらっしゃったようです。「ちゃんとした演奏ができなければ引き受けない」とはっきりおっしゃったので、佐渡さんに納得してもらえるものを作ると約束し、「1万人の第九」の第2幕がスタートしました。
佐渡さんが出した条件
佐渡さんが指揮者を受ける際に出した条件がありました。それは、「単なる指揮者ではなく、総監督であること。そして、「信頼できるスタッフ(舞台監督の小栗哲家さんと音響の山中洋一さん)の起用」「オーケストラのダウンサイジング」「佐渡練の実施」でした。
そこで、山本先生の時代に、大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団のトータル約250人で構成していたオーケストラの人数を縮小しました。また、佐渡さんが指揮するようになって3年たったころ、「アマチュアによる合唱団だから、オーケストラもユースオーケストラでやりたい」と提案され、関西音楽大学協会に所属する8大学の学生オーケストラにお願いして、2002年に「1万人の第九ユースオーケストラ」を結成。ウィーン・フィルとウィーン交響楽団から5人首席奏者を先生としてお呼びして、10回ほど練習を重ねて本番に挑みました。先生方も非常に熱心に教えてくださって、よいオーケストラだったと記憶しています。04年までユースオーケストラが続き、佐渡さんが芸術監督を担当する兵庫芸術文化センターが05年にオープンしてから、同年に設立された兵庫芸術文化センター管弦楽団のメンバーを母体として、08年までは学生も加わり、オーケストラを構成していました。
「佐渡練」とは、佐渡さんと合唱団との合同練習の愛称です。佐渡さんは、大阪城ホールでのリハーサルと本番以外にも、1000人ずつ単位で練習したいと主張されました。毎年本番前に8回から9回佐渡練を行いますが、1年目は会場も佐渡さんのスケジュールも押さえられずに、なみはやドーム(現・東和薬品RACTABドーム)で3000人ずつ3回練習を行いました。
佐渡さんが1万人の第九を指揮されるのは今年で18回目となります。実は1回振ってやめようと思っていたそうです。でも初めての年に本番を終えた際、「ここには自分の求めている音楽と近いものがある」と感じ、「1万人の第九には、音楽以上の音楽がある」とおっしゃって、現在に至ります。
毎日新聞ニュースサイト
「クラシック・ナビ」に2016年掲載
http://mainichi.jp/classic/