サントリー1万人の第九サントリー1万人の第九

サントリー1万人の第九のつくりかたサントリー1万人の第九のつくりかた

「1万人の一人になりたい」

「久しぶり」「お元気でしたか?」「今年も楽しみだね」――。8月19日、第九経験者を対象としたサントリー1万人の第九東京クラス「築地1」の初日、東京・築地の浜離宮朝日ホールには仲間との再会を喜ぶ声が飛び交っていた。初心者・初級者向けと経験者向けクラスとのレッスンの違い、1万人の第九経験者が「また歌いたい」と願う理由を探ってみた。【西田佐保子】

下村郁哉さんの”熱い”合唱指導=西田佐保子撮影

曲の構成についても詳しく解説

経験者の余裕だろうか。同日の夜に行われた初心者・初級者向けの東京クラス「築地A」に比べ、会場はリラックスした空気に包まれていた。「築地1」クラスの合唱指導を担当するのは、築地A同様、下村郁哉さん(63)だ。

「ベートーヴェンは音楽家であり、哲学者であり、革命児でもありました。私が63年生きていたなかで知り得る最も魅力的な人間と言えるかもしれません。このクラスでは、ベートーヴェンの人間像や作品についてお伝えしながら、レッスンを進めます。本番で皆さんに心からの感動を感じていただければ最高です」

ピアノに合わせた発声練習がスタート。「体をブラブラ揺らしながら」との指示で、参加者の全身の緊張が解け、声がどんどん出てくる。「第九の第4楽章は大きく分けて六つのパートに分かれています。オペラで言えば、1幕から次々と幕が変わるようなものです。これらの幕がどのようにつながっていくか意識していきましょう」「ただ歌うのをやめて楽譜を見ましょう」。経験者クラスだけあって、曲の構成や表現についても細かく指導する。「さすがですね」。レッスン最後の合唱でうれしそうに下村さんは参加者に言葉を掛けた。

「とにかく感動した」と話す経験者

レッスンは夜間や週末などさまざまな時間設定があるが、「築地1」は平日15時スタートということもあり、参加者は、主婦やリタイア世代の男性が多い。「そろそろ後期高齢者です」と笑う参加5回目の男性は、「これまでさまざまな合唱団で第九を歌ってきましたが、やはり指揮者によって異なります。下村先生の合唱レッスンも、佐渡裕さんの指揮も素晴らしい。1万人の第九は他の第九とは迫力が違います」と話す。下村さんはレッスン中、「佐渡さんのすごいところは、芸術に慣れ親しんでいない人たちに分かりやすく教えて、最後に感動の涙を流させるところ」と評していたが、1万人の第九経験者は一様に「感動した」と目を輝かせる。

休憩時間に近況を語り合っていた女性4人は、昨年同じクラスで仲良くなったという。今年で2回目の江藤淳子さんは、「10年前にテレビで見て、自分も参加したいと思いつつ、まずその前に別のイベントで第九を歌って、昨年初めて挑戦しました。とても感動しました」。4年連続参加で「1万人の第九は1年の総決算」と語る筒井一二三(ひふみ)さん(57)は、1万人の第九を「私の希望」とまで言い切った。それには深い理由があった。

再び歌う希望をくれた「スピーチカニューレ」

音大を卒業した声楽家の筒井さんは、22年前に乳がんを発病した。6年前に肺に転移し、右肺3分の1を切除。その後、骨、3年前には気管に転移した。14年4月から抗がん剤を続けていたが、今年1月、急に声が出なくなった。リンパ節に転移したがんが、声帯を動かす反回神経を侵していたのだ。声帯が閉じてしまい、ご飯を食べられず、呼吸もできない状況に陥った。昨年4月にも左側の声帯が動かなくなったが、リハビリで声を取り戻す。今回は違う。「いざとなってから救急車を呼んでも間に合いませんよ」。医師から気管切開するよう説得されたが、「声は戻らないかもしれない。歌はあきらめてください」という説明に「声を失いたくない」と拒み続けた。しかし、家族や友人、合唱指導していた合唱団メンバーからの「とにかく生きてほしい」という言葉に心動かされ、「もう歌は諦めようか。生きていれば良いことや、人の役に立つことがあるかもしれない」。2月に手術を決意した。

手術後1週間たち、気管切開部に装着して発声できる医療器具「スピーチカニューレ」を医師に勧められた。「私の声だ」。光がさした。息子が教えてくれた動画サイト「YouTube」で、スピーチカニューレをつけて歌う声楽家・青野浩美さんの姿を見て希望が生まれた。そして強く願った。「今年も絶対、1万人の第九に参加する」と。

松山市で8月21日に行われたコンサートで歌う筒井一二三さん=筒井一二三さん提供

1万人の第九は生きる希望

「あの感動を味わってもらいたい」と大阪の友人から誘われ、2013年に初めて1万人の第九に参加した。仕事や経済的な問題もありなかなか思い切れなかったが、筒井さんは「大好きな佐渡さんの指揮で歌いたかった。1万人の一人になりたかった」。参加して、誰もが真剣勝負で挑んでいることに驚き、うれしく思った。仲間もたくさんできた。大阪城ホールのリハーサルで1万人の第一声を聴いたとき、その迫力に鳥肌がたったという。全てを包み込む佐渡さんのパワーとオーラにも圧倒された。大阪城ホールで歌っていると、毎年いろいろな人の顔が浮かぶ。「感謝の言葉しか出てきません。ここで歌える感謝。そして、来年もここに戻ってくるぞ、本番で佐渡さんに声が届くように治療を頑張ろう、と誓います」

スピーチカニューレの取り外しは痛みを伴い、たんの吸入も骨が折れる。抗がん剤の副作用もつらい。「でもどんなに苦しくても、歌のためなら耐えられる」。筒井さんは今年8月、1万人の第九で出会った友人のサポートも得て、故郷の松山市でコンサートを開催した。以前のように歌えないと落ち込んだが、「昔は今みたいな歌は歌えなかったよね。さまざまな経験をしたから、その歌を届けられるんだよ」と友人からメッセージをもらった。今の筒井さんにしか表現できない歌がある。「1万人の第九は希望です。明日への希望、そして生きる希望」。「1万人の一人」である彼女の歌声は、大阪城ホールでどのように響くのだろうか。

本番当日は、初心者を引っ張っていく頼もしい存在となる経験者クラスの参加者たち。「築地1」全6回のレッスンは11月11日まで続く。

毎日新聞ニュースサイト
「クラシック・ナビ」に2016年掲載
http://mainichi.jp/classic/

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