二つの大震災を超えて
1983年にスタートした「サントリー1万人の第九」について、同イベントのチーフプロデューサーである毎日放送の山川徳久さんに、これまでの歴史や本番に至るまでの合唱団のレッスンなどについて紹介してもらった。今回は、「1万人の第九」を続けるにあたり遭遇したさまざまな困難、そしてこれからについて聞いた。【構成・西田佐保子】
「すべての人は兄弟になる」を歌う意味
「1万人の第九」を33年続けてきた中で、さまざまなことがありました。やはり一番大きかったのが、95年の阪神・大震災と2011年の東日本大震災です。11年には、協賛社サントリーさんの震災復興支援活動の一環で被災地の合唱団を会場にご招待し、仙台にも会場を設けて、現地の合唱団と中継でつないでともに歌いました。
東日本大震災発生の3日後、佐渡さんは「第九の指揮をしてほしい」とのオファーを受け、11年3月26日にデュッセルドルフ交響楽団とケルン放送交響楽団の合同オーケストラによる東北のためのチャリティーコンサートが開催されました。第九は歓びの歌です。歌詞には「Alle Menschen werden Bruder(アッレ メンシェン ヴェルデン ブリューデル)」(すべての人は兄弟になる)とあります。つらいときこそ、人々が兄弟となり手をつなぐ。フランス革命後に作られたこのシラーの「歓喜に寄せて」を第九に歌詞として引用したベートーヴェンは、「貴族だけじゃなく、誰もが平等に楽しめるすばらしい音楽を」との思いを第九に込めています。作曲されて190年たった今も第九が多くの人に愛されているのは、このメッセージが人の心を打つからではないでしょうか。今、テロがあったり、世界がバラバラになっていたりするところがあるけれど、「1万人の第九」は、プロもアマも、全国の人々が心を一つにして一緒に歌う。震災後だからこそ、1万人で第九を歌う意味があると思いました。
「1万人の第九」を続けられているというのは実に奇跡的なことです。小学生からご高齢の方まで参加者は当日、リハーサルを含めると朝9時から終演の午後6時ごろまで緊張状態のなかでホール内にスタンバイしていなくてはなりません。33年間、大過なく毎回開催できてきたことは当たり前のことではないと思っています。1万人もの一般の皆さんに参加していただいて、3カ月間のレッスンを経て1年に1回のクラシックコンサートを作る。毎年無事開催できるよう、急病人に対応するための看護師を手配するなど、万全の体制を整えています。
常に「今」を意識してコンサートを構成する
私は、偶然「1万人の第九」を担当していますが、この事業に携われてありがたいと思っています。先輩方から代々受け継いだ大切な事業で、絶やしてはいけない、もっと広げたいという思いは、他の仕事とは別格です。実際、02年からこのイベントを担当するようになって、「1万人の第九」が持つパワーと可能性を痛感しました。
クラシック音楽ファンの人口は決して多くはありません。でも、より多くの人に「1万人の第九」の存在を知ってもらい、1万人で第九を歌うことを世界に広げていきたい。そのために、話題作りは欠かせません。「1万人の『世界に一つだけの花』」「1万人の『アナと雪の女王』」など、その年一番のヒット曲を1万人と合唱したり、サプライズゲストとして出演していただいたオリンピックの金メダリストに「歓喜の歌」を届けたり、さまざまな企画を練ってきましたが、「1万人で第九を歌う」こと自体は33年間変わっていません。時代を考慮して企画を考える一方、単なるお祭りイベントに見られないよう話題作りだけでなく、年によっては芸術性の高いアーティストを呼ぶなど、何年か先を見据えながらプランニングしています。
「これはベートーヴェンが作りたかった第九だ」
昨年、佐渡さんが音楽監督を務めるトーンキュンストラー管弦楽団の事務局長が「1万人の第九」を聴きに来られて、「裕、これをウィーンでもやりたい」とおっしゃったそうです。それがきっかけで、佐渡さんは今年の2月、ウィーンで「500人の第九」を指揮されました。とても素晴らしい演奏会だったようですが、指揮で合唱が始まる合図を送っても合唱団のメンバーが席を立たないなど苦労も多く、運営、レッスンは大変だったと思います。「やっぱり1万人の第九ってすごいなって思ったわ」と佐渡さんがおっしゃったのを聞いて、「総監督就任18年目にして分かっていただけましたか」と笑いました。
02年にオーケストラのメンバーとして参加してくれたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の故フリッツ・ドレシャルさんには、本来クラシックを演奏する場ではない大阪城ホールで演奏していただくので、どのように思われるか不安でしたが、「これこそベートーヴェンが作りたかった第九だ。このような形で日本人が再現してくれてありがとう」と感謝していただきました。演者として、観客として、感動してくれる人がいる。私も毎年感動します。「1万人の第九」では、小学校1年生から80歳以上の方々まで同級生です。これが他のコンテンツだったら33年間も継続していなかったでしょう。
「1万人の第九」という芸術を作り続ける
「今年は何かにチャレンジしよう」と、東京マラソンや大阪マラソンに出場する方も多いと思います。「1万人の第九」も、同じような思いで参加されれば、大きな達成感を得られるはずです。1回目はうまく歌えなかったから、来年も参加したいと、再度挑戦される方もいらっしゃいます。初めて参加される方も、リピーターの方も、毎年熱心にご応募いただけるのは大変ありがたいことです。
第九を成功させるために、数年前から「12回のレッスンで3回以上休んだら本番には出られない」などいくつかのルールを決めさせていただきました。厳しいルールですが、厳しいレッスンを経てこそ本番を楽しめるという真剣な思いの参加者が増えて、毎年合唱の質が上がっています。「1万人の第九」という芸術を作る演者の一人であるという自覚を持っていただいている1万人の合唱団の皆さんには、感謝の気持ちでいっぱいです。
毎日新聞ニュースサイト
「クラシック・ナビ」に2016年掲載
http://mainichi.jp/classic/