桃始笑。“もも・はじめて・さく”あるいは“わらう”と読む。これは古代中国でつくられた太陽の1年の動きを24等分した二十四節気(およそ半月ごとに区分)の一節気をさらに3つ(およそ5日ごと)に細かく分けた七十二候の第八候にあたり、3月10日頃の桃の花がほころびはじめる頃を指すらしい。
笑う=咲く、と同意に捉えるのは日本独自のもの。日本人らしい詩的感性だ。ご本家中国では桃始華(もも・はじめて・はなさく)となる。
3月3日は桃の節句、ひな祭り。しかしながら旧暦に基づいた行事であり、旧暦3月3日は現在の4月頃。桃の花がほころびはじめるのは3月下旬くらいで、最盛期は4月はじめだから大体当てはまっている。
仕事柄、長年にわたり数え切れないほど山梨県にある白州蒸溜所や登美の丘ワイナリーに出かけている。山梨県は桃の収穫量日本一。花が咲き誇る季節に向かうときはこころ躍る。クルマで行こうが、中央線の特急電車で行こうが、甲府盆地へ入り込んだ瞬間、ピンク色に染まった美しい景色に言葉を失う。花を愛でるこころが希薄な人であっても、香り立つ美しさに感動するはずだ。
桃源郷。俗世界から逃れた、桃の花と香りに包まれた平和な理想郷のことだが、たしかに桃の花満開の里は桃源郷といえるほどの陶酔感をもたらす。
別世界。甲府盆地のあの眺望は、煩雑な毎日を送りつづけたせいで胸の内に淀んでしまった澱(おり)を、たちまちに浄化してくれる。そして夏を迎えると桃が甘くみずみずしく実るのは当たり前のように想える。
「春の苑(その)紅(くれない)匂ふ 桃の花 下照る道に 出で立つ乙女」
『万葉集』巻第十九にある、絵画的なとても美しい描写の和歌である。巻十九はほとんどを大伴家持が編んだものだそうで、家持作と解釈されているようだが、作者不詳としている文献もある。
作者は誰であれ、春の明るい陽光を浴びた桃の花と美しい娘の輝きを見事に描いている。ロマンチックであり、胸が高鳴るような眩い光景だ。
そして、桃は美しいばかりではない。昔から霊力があり、邪気を祓うといわれている。ひな祭りは、女の子が健やかに成長することを願ったものだ。男の子の世界では桃太郎の鬼退治がそれを物語る。つまり厄除けなのだ。
では気分を変えて、カクテルを飲んで桃の花の咲く美しい情景を想い描き、幸せな気分に浸っていただきたい。
桃始笑頃には「ファジー・ネーブル」を飲んでみよう。これからやっと花のシーズンだから実はまだまだ先になるが、ありがたいことに桃のリキュールがある。「ルジェ クレーム ド ペシェ」。これをオレンジジュースで割ればいい。
オレンジの味わいに桃のコクのある甘みがやさしく溶け込んだフルーティーでとても美味しい簡単お手軽カクテルである。自宅で味わうのにもってこい。自分好みの味わいに仕立て上げられる。
700mlのフルボトルはもてあましちゃう、という方もいらっしゃるだろう。そんな人のために200ml(アルコール度数15%・税別希望小売価格¥700)サイズもある。とりあえず、こちらを購入して味わっていただきたい。
ところでこのカクテル名。なんだか可笑しいのだ。
アメリカでは産毛(うぶげ)のことをpeach fuzzと言ったりするらしい。桃は新鮮なものほど産毛というか細かなケバケバ状のものが多いという。保水性のため、また害虫や病気から守るために生えているらしい。fuzzは綿毛。fuzzyはケバにおおわれた状態。でも、不明瞭、ぼやけた感覚の意味もある。
そしてnavel。臍(へそ)。これはネーブルオレンジから取ったものだとは想うけれど、わたしは若い頃から最近まで、「ファジー・ネーブル」はオレンジ味のようなピーチ味というか、ふたつが溶け合ったはっきりしない味わいだからずっと“臍がわからん”と解釈していた。
ほんとは、どうなんだろう。わたしがよく目を通すカクテルブックにはそんなことは一切書いてない。単純にピーチ&オレンジってことなんだろう。
「ルジェ ペシェ」をもっとすっきりと味わいたいならば、ペシェ&ソーダをおすすめする。こちらも自宅で楽しめる簡単お手軽カクテル。早い話“ペシェ・ハイボール”である。
実はわたしはとても気に入っている。ビールじゃない、ウイスキー・ハイボールでもない、ジントニックでもなくて、なんだかシュワシュワ系の甘みが欲しいな、というときに「ルジェ ペシェ」をソーダ水で割るのだ。ピーチ味のすっきりとした甘さが心地よい。以外に皆さん桃始笑ような新鮮さを覚えるのではなかろうか。好きになる人は多いはずだ。
さて最後に仏語peche(ペシェ)、英語peachに関して。桃の原産国は中国。古代にシルクロードによって西へ西へと伝わり、ペルシャに届く。そんな流れがわかるはずもなかった大昔の西ヨーロッパでは、桃はペルシャ(Persia)からやってきたので、それが転訛してペシェ、ピーチと呼ぶようになったらしい。