お恥ずかしい話をする。実はわたしはこれまで、星座というものにまったく関心がなかった。ギリシャ神話を読んで、夜空を見つめて星を確認したこともなければ、星座図鑑のページを熱心にめくったことさえない。わかるのは北斗七星だけであった。
ところがいま、冬の南の夜空に輝くオリオン座を眺めている。遠い昔の記憶が甦ったからだ。ひとつのホットカクテルのおかげである。毎晩のように寒空を見上げながらさまざまに回顧する時間旅行を楽しんでいる。
厳寒への時を告げる木枯らしの季節に、親しいバーテンダーが常連客の心身を温めるホットカクテルの創作をはじめた。12月になり、わたしが訪ねたとき、数日前にレシピが決定したところだったので試飲を頼まれた。
南フランスはマルセイユ近郊の果樹園で実ったクムカット(金柑)のリキュール「キミア」、バーボンウイスキー「メーカーズマーク」、バーボンリキュール「ジムビームハニー」、そしてオレンジジュースというスタッフである。
金柑にオレンジジュースだからスイートなんだろうな、というのが最初の印象。でも、バーボンとバーボンリキュールがどんな活躍をするのか気になった。
口にすると人を優しい気持ちに誘う、温かい微笑みに出会ったような気がした。炬燵(こたつ)に温州みかんの組み合わせのようでもあるが、1粒浮かべたクローブ(丁字)の香りにオリエンタルな気配も漂う。面白い味わいで、お洒落とも違う、エキゾチックとも違う、晴れ晴れとした明るい日なたの広がりを感じさせるのだ。
飲みすすめると、何とも言えない開放感に満たされる。そして記憶の海の底に沈んでいた学生時代のひとコマが突然映像となってこころのスクリーンに浮かび上がった。
その娘とは友人の友人といった関係で、特別親しい訳ではなかった。彼女はとりわけ目立つような存在でもなかったけれど、人懐っこい可愛らしい笑顔の持ち主だった。
冬のある日、学生食堂で文庫本を読んでいたわたしに声をかけてきて、真正面に座った。とりとめのない会話をしていると、彼女が「一緒に食べよう。おいしいよ」と急にバッグのなかから赤いバンダナに包んだ小さなタッパーを取り出し、フタを開けた。
黄色というかオレンジ色というか、丸っこい可愛らしい果実を見つめているわたしに彼女は「キンカンだよ。食べな」と言い放った。憎めない、あっけらかんとした態度と笑顔だった。なんで持ち歩いているのか、なんでこのわたしにすすめるのか、と理解に苦しみつつ、ひと粒手で摘まんだ。ハチミツ漬だったのか甘露煮だったのか。味わいの記憶は薄れてしまっている。
口にしたわたしに彼女は、おいしい?とか、どう?とかも聞かず、突然「なんかさ、最近、夜になるとオリオン座を眺めちゃうんだ。キレイに輝いているからさ」というようなことを言った。わたしはポカンとした顔をしていたはずだ。さらに「オリオン座、見てる?」と追い打ちをかけられ、「いや、いままで一度も見たことがない」と答えると、「ウッソー。嘘でしょ」とひどく驚き、ケタケタと笑い転げた。
キンカンちゃんの彼女とはそれ以降も学内で出会えばとりとめのない話をした。そして互いに進路を告げることなく卒業する。
社会人になって2年ほどが過ぎた週末の夜、キンカンちゃんを地下鉄の車内で見かけた。背の高い好男子に寄り添い、あの人懐っこい笑顔で楽しそうに会話していた。彼氏ができたんだな、そう想うと同時に、わたしはなんだか嬉しくなり、他人事なのにとても幸せな気分に満たされる。先に目的駅に着いたので、声をかけることもなく気づかれないようにわたしは電車を降りた。
ただそれだけのことで、特別なことは何もない。でもそんな彼女との思い出が「キミア」ベースのホットカクテルを飲みながら甦った。撮影しながらも存在すら忘れてしまっていた古いフィルムを見つけ出したかのようだ。
記憶の扉を開け、学生時代を回顧する時間を与えてくれたから、カクテル名は「タイムトラベル」とした。
金柑は白い花を咲かせるそうだ。その花言葉は、想い出、感謝。オリオン座を見上げると、学生時代のキンカンちゃんの笑顔が浮かんでくる。
彼女はいまも金柑を食べ、オリオン座を眺めているだろうか。
「キミア」はとても丁寧につくり上げられている。地中海の陽光を浴びて育ったクムカット(長実金柑)の果実をスピリッツにまるごと浸漬。その浸漬酒にフレーバードワインのフレンチベルモットをブレンド。さらに隠し味としてフローラルハーブのハニーブッシュ、エルダーフラワー、オレンジフラワーといった独自の浸漬酒も加えられている。
ほろ苦い果皮のほのかな香りと爽やかな甘さの果実味とのバランスがよく、独特の深みがある。
ホットカクテル「タイムトラベル」はその「キミア」とオレンジジュースという柑橘系の甘みをバーボンが巧く抑える役割を担っている。オレンジと相性がいい「メーカーズマーク」を使うところがポイントであり、また「ジムビームハニー」とのタッグがクリーミーさを生んでいる。
つくり方だが、クローブ以外の材料をすべて一緒に合わせ、沸騰させないように温めるそうだ。オレンジジュースだけを温めて最後にグラスに注ぐというやり方だと、オレンジの甘さの主張が強くなり重たい味わいになるらしい。
最後に、自宅で手軽に「キミア」を楽しむならば、オン・ザ・ロックのオレンジジュース割をおすすめする。