世界一美しいパステル画は、スイスの画家ジャン・エチエンヌ・リオタール作『チョコレートを運ぶ女』(1744-45)と言われている。とても透明感のある絵で、おもわず細部までじっくりと見つめてしまう。
作中の麗しいメイドが手にしたトレイにはチョコレートの入ったマイセンのカップが載せられていて、マイセンの磁器の意匠にも採用されている。
この18世紀中期の作品は、かつてチョコレートは上流階級が"飲む"ものであったことを教えてくれる。食べる固形のスタイルが生まれたのは19世紀半ばまで待たなくてはならない。
さて飲むチョコレートといえば、リキュールの逸品がある。「モーツァルト」。偉大な作曲家モーツァルトの生誕地、オーストリアのザルツブルグでつくられている。上質なカカオ豆とバニラといった素材をアルコール抽出して樽熟成させ、その熟成液を蒸溜。得られた蒸留液をさらに樽熟成させて生まれる。
日本ではチョコレートクリーム、ブラックチョコレート、ホワイトチョコレートの3種の「モーツァルト」が飲める。ウオツカと「モーツァルトブラック」のチョコマティーニに代表されるように、バーテンダーはビターチョコのさらっとしたドライ感覚のブラックをカクテルに使用することが多い。だが、わたしは甘美でとてもジューシーな「モーツァルト チョコレートクリーム」への思い入れが強い。
1990年。フランスはパリ。2月の寒い夜。牡蠣料理で知られるレストランに待ち合わせ時間よりも早く着いてしまったわたしは、ウェイティング・バーのカウンターにひとり立ち、ウイスキーを飲んでいた。そこへプラチナ・ブロンドに輝く長い髪の美しい女性が登場し、わたしに軽く微笑んでからオーダーしたのが「モーツァルト チョコレートクリーム」のストレートだった。
瀟酒なリキュールグラスを傾ける彼女の横顔はとても知的で、カトリーヌ・ドヌーブかと見まがうほどに美しい。「旅行ですか」と話しかけられ、もう人生がバラ色になったように舞い上がってしまう。
彼女は、ここの牡蠣はとてもおいしかったのだが、皆が仕事の話ばかりするのでつまんなくて、バーでひとり、気分を変えようとしている、というようなことを優しい英語で話してくれた。デレデレになりながら、食後のデザート・ドリンクに甘いチョコレートを飲む人にはじめて出会い、新鮮な気分に包まれる。そしてアタマに浮かんだのが『チョコレートを運ぶ女』の絵だった。
同時に、別の感慨もあった。和食では砂糖やみりんといった甘い調味料をよく使う。フランス料理で砂糖を使うのはジビエ、鳥獣の料理くらいにしかない。だから甘いデザートで脳の満腹中枢を刺激するのだ、とあらためて実感した。
気が利かない待ち人はわずか5分遅れで到着してしまい、プラチナ・ブロンドの彼女との恋は束の間で終るが、とても祝福すべき時間だった。