イタリア・ヴェネツィア、サンマルコ広場のほど近く、エリザベスII女王も訪れた世界的に名高いバー・レストラン『ハリーズ・バー』がある。
石造りの白い外壁に木製の扉。小粋なデザインの窓がいくつかある。華美な装飾はなく、あくまですっきりと瀟洒な外観の隠れ家的なこの店に世界中から人々が集まってくる。観光名所といっていい。ほとんどの人たちがサーモンピンク色したカクテル「ベリーニ」(イタリア発音はベッリーニ)をオーダーする。
店内のつくりも美しい。丸椅子6席のバーカウンターは古典的でクールだ。あとはテーブル席がずらり。2001年にイタリア文化遺産に指定されたそうだが、確かに価値ある空間である。2階も本格レストランとして評価が高い。
この店にまつわるエピソードはたくさんあり、しかもかなり知られているが、今回はあえて創業者ジュゼッペ・チプリアーニの足跡を簡単に辿ってみたい。
創業は1931年5月13日。開業までの経緯が面白い。
エウロペアというホテルでバーテンダーをしていたチプリアーニには、独立してヴェネツィアでトップを競うような店をつくりたいとの願望があった。
あるとき、ホテルバーの常連客となっていたアメリカ人の学生で資産家の息子、ハリー・ピッカリングがしばらくぶりに顔を見せる。心配していたチプリアーニが「どうしていたのか」と声をかけると、ハリーは「お金がなくて、アメリカへ帰国することもできない」と答えたのだった。
チプリアーニは店の開業資金を懸命に貯めていたのだが、望みを達成する費用はあまりにも多額で、独立を諦めかけていた。そこで彼は気前よくハリーに1万リラを貸す。彼の気だての良さを信用したのだろうが、無謀としか思えない。
ところが数カ月経って、なんとハリーはヴェネツィアに戻ってくる。借りた金額を返しただけでなく、利子として4万リラを加えた計5万リラという大金をチプリアーニに渡したのだった。ハリーの多大な恩返しである。
ラグーン(干潟)に膨大な量の丸太の杭を打って生まれた奇跡の街でのこと、このくらいの話で驚いてはいけないのだろう。
おかげでチプリアーニは自分の店を開業。店名には迷うことなく信頼で結ばれたアメリカ人青年の名をつけた。それが『ハリーズ・バー』である。
カクテル「ベリーニ」はジュゼッペ・チプリアーニが生んだ名作だ。主役の白桃のピューレをヴェネト州特産ぶどう品種グレーラからつくるプロセッコと呼ばれるスパークリングワイン(イタリアではスプマンテという)が華やかに爽やかに盛り立て、上品な甘さで魅了する。店では白桃を旬に大量に仕入れ、1年中切らさないように冷凍保存している。
カクテル名はルネサンス期のヴェネツィア派確立者とされる画家、ジョヴァンニ・ベリーニ(1430頃−1516)の名を戴いたもので、1948年にヴェネツィアで開催されたベリーニ展を記念して創作された。
チプリアーニは料理でも名作を遺している。「カルパッチョ」は彼の考案というのが通説となっている。
1950年、常連客だったアマーリア・ナーニ・モチェーゴという伯爵夫人が体調を崩し、医者から食事制限を厳命された。制限されたなかに加熱調理した肉料理があった。チプリアーニは気を利かせ、レアの仔牛フィレ肉を薄切りにし、レモンの酸味を加え、マヨネーズとマスタードを合わせたソースで仕上げる。そして伯爵夫人にすすめた。口にした彼女は歓喜したという。
また1963年にベリーニと同時代のヴェツィア派の画家、ヴィットーレ・カルパッチョ(1465頃-525頃)生誕500周年回顧展が開催され、そのときに大々的に売り出したとの説もある。皿に盛られた配色が画家の特長的な赤と白の色づかいを想起させたことから料理名を「カルパッチョ」としたらしい。古くからあるピエモンテ地方の料理を彼がアレンジしたものだともいわれている。
日本では魚介類を素材にした刺身のアレンジ的なものが一般的だが、元祖は生の仔牛肉である。これがイタリアから世界に伝わるようになって、さまざまな素材での「カルパッチョ」が生まれたそうだ。
チプリアーニはその後、ジュデッカ島に土地を購入。1958年、そこにホテル・チプリアーニを開業する。彼は10年ほど経営に携わっただけで、すべての権利を売却してしまうが、現在もホテル名はそのままに、超高級5つ星ホテルとして世界のセレブに愛されている。サンマルコ広場から専用シャトル・ボートに乗り4〜5分でホテルの桟橋に着く。
さて、カクテル「ベリーニ」。多くのカクテルブックに掲載されている材料は、スパークリングワイン、ピーチネクター、グレナデンシロップである。実はこれは『ハリーズ・バー』ローマ店のレシピであり、本家ヴァネツィア店はグレナデンシロップではなくシュガーを使用する。イタリア・バーテンダー協会がローマ店のレシピを採用しているからである。
わたしと仲良しのバーテンダーのつくり方はまた違う。白桃、ピーチリキュール「ルジェ クレーム ド ペシェ」、グレナデンシロップをブレンダー(ミキサー)にかけ、濃い果実味とリキュールを加えることで高まる桃らしい甘さがよく馴染んだネクターをつくる。そしてスプマンテではなくシャンパンだ。
チプリアーニが桃にプロセッコと、ヴェネツィア近郊の特産品にこだわったように、「ルジェ ペシェ」を使うならばシャンパンで、とフレンチ・シリーズである。濃度の高い桃のネクターをドライなシャンパンがすっきりとした甘さに誘う。ワイン好きの方にはこちらをおすすめする。
ちなみに伊語で桃はpesca(ペスカ)、仏語でペシェ(peshe)。
これから桃の季節。是非味わってみていただきたい。「ルジェ ペシェ」を自宅に1瓶用意して、スパークリングワインで割るだけでも十分においしい。またペシェのオレンジジュース割り「ファジー・ネーブル」は手軽でおすすめ。