アメリカ禁酒法が生んだカクテルについてまた触れたい。とはいえ、アメリカだけが禁酒法下(1920-1933)にあった訳ではない。隣国カナダも同じような動きがあった。ただしカナダは州に規制を任せていたためにアメリカほどの厳しさはなく、また酒類の輸出に関しては国が容認していた。
そして北欧諸国ではアメリカよりも早くに禁酒法を実施している。
まずスウェーデン。1914年から1955年までの間、ブラット・システムと呼ばれる配給制度によって酒類販売を厳しく制限していた。
ノルウェー では1916 年から 1927 年までアルコール度数が 20% を超えるアルコール飲料が禁止されていた(1917年から1923年まではフォーティファイド・ワインとビールも禁止)。
フィンランドにおいては1919年から1923年までアルコール飲料を全面禁止していた。
また北極圏に近いアイスランドでも1915年から全面禁酒令を導入。スピリッツとワインが1935年、ビールは1989年まで合法化されなかった。
とくにスウェーデン、ノルウェー、フィンランドの3カ国はアルコールの密貿易においては魅力的な国となる。密輸の酒として人気が高かったのはドイツ、オランダ、ポーランドなどのスピリッツだった。高緯度の寒い国々には身体を温める酒が必要なのだ。
主にドイツのハンブルグやキール、自由都市ダンツィヒ(現グダニスク/ポーランド)、そしてエストニアのタリンといった港から免税品扱いで合法的に輸出されていった。 そしてアメリカのラム・ロウ(酒屋通り/第135回『禁酒法領海3マイル攻防』参照)と同様、それぞれの国の沿岸近くで小型船に秘密裏に積み込まれていたようだ。
人間がおこなうことは、ところ変われども同じである。上記の国々では現在もさまざまな酒類規制をおこなっている。
もうひとつ、禁酒法と酒の密輸について何度か語ってきてはいるが、アメリカにしても正規品(ホンモノ)を入手して飲めたのは限られた富裕層だけである。ほとんどの人たちは水で薄められたものや、質の悪い密造酒か混ぜ物をした悪酒を手に入れるしかなかった。
アメリカで密輸によるホンモノを売って大儲けした名高いラム・ランナーにウィリアム・フレデリック・“ビル”・マッコイ(1877-1948)がいる。彼は優秀な造船技師であり船長であった。
マッコイは自らが造船した船で大海原を駆けることに情熱を捧げた人であったが、酒を嗜む人ではなかったようで密輸品には魅力を感じなかったらしい。そのため密輸した酒を加工するようなことはしなかった。
彼が供給する酒はピュアであり、“The Real McCoy”と呼ばれ、それがホンモノ、真正の証としての別称にもなった
自分自身を“正直な法律違反者”と認め、誇りを持って仕事をした。自分の仕事を守るためにギャングや政治家、または法的機関に賄賂を渡したこともなかったそうだ。マッコイは1923年11月に逮捕されて9カ月の刑に服しているが、それまでに彼は400万本以上のホンモノの酒を供給した。