ウオツカはカクテルの世界では新しいスピリッツといえる。11世紀頃には原形が誕生していたとの説があるが、長くロシア、ポーランドをはじめ東欧の酒の域を脱することはなかった。ウオツカが世界的に広まるには20世紀まで待たねばならなかった。
ヨーロッパが第一次世界大戦(1914-1918)の混乱に陥っている最中にロシア革命(1917)が起こる。革命から逃れた亡命ロシア人によって、1920年頃からウオツカは世界各地で細々とつくられるようになる。
欧米のバーテンダーがウオツカをよく扱うようになったのはアメリカでの禁酒法(1920-1933)が撤廃された1930年代半ば以降であろう。それでもかなりマイナーな存在であった。
現在も愛されているウオツカベースの「ブラッディ・メアリー」は1921年頃(諸説有り)にパリで生まれた。「モスコー・ミュール」は1941年にロサンゼルス、同じ頃に「スクリュードライバー」がイランの油田で、赴任していたアメリカ人技師によって誕生している。
実際、アメリカでウオツカが少しずつ飲まれるようになったのは1950年代に入ってからになる。そして50年代半ばからこの3つのカクテルが知られるようになり、スタンダードへの道をようやく歩みはじめる。
そして決定打。“Vodka Martini, Shaken, not stirred”。1962年に公開された映画007シリーズ第1作『ドクター・ノオ』での、ショーン・コネリーが演じたクールで危険な香りのするジェームズ・ボンドの台詞である。これによりウオツカというスピリッツが世界的に注目されるようになる。
アメリカでは第二次世界大戦後の東西冷戦によって、ロシアの酒を敬遠するところがあった。ところがボンドの台詞が、多くの人たちの目をウオツカへと向けさせることになったのだ。
加えてロックンロールやフォークソングのブームは、古い価値観に縛られた大人たちへ向けての若者たちの反抗であり、またベトナム戦争(1965−1975)の長期化が反戦運動につながった。ついには古い体質への嫌悪が増長し、皮肉にも逆にウオツカ人気は高まったといわれている。60年代にはジンベースの「ソルティ・ドッグ・コリンズ」をアレンジしたウオツカベースの「ソルティ・ドッグ」が誕生して評判を呼ぶ。
こうした一連の流れからウオツカはアメリカで急激に売り上げを伸ばし、ラムやテキーラを伴ったホワイト・レボリューション(白色革命/ホワイトスピリッツの革命)が起こった。
1974年、スピリッツ部門においてアメリカのナショナルドリンクであったバーボンウイスキーの販売数量を抜き、ウオツカがNo.1の座に就く。自然志向、健康志向へ向かうなかでライト、マイルドといった感覚のものが好まれる時代を迎えていた。ウオツカをジュースで割るライトな感覚も受け入れられたのだった。
いまもアメリカはウオツカ大国であり、蒸溜所の数も多い。金額ベースでロシアを抜き世界1位(販売数量では1位ロシア、2位アメリカ/2020年度)となっている理由には、こうした背景がある。