ロンドン、セント・ジェームス地区にあるデュークス・ホテルのバーに久しく行っていない。困ったことに、北イタリア出身ながら英国気質を身にまとった小柄な老バーテンダー、ジルベルト・プレティのつくるマティーニの香りが突如として鼻先によみがえってきたりする。それはかつてサンデー・タイムズ紙が“ 世界一のマティーニ”と評した、「デュークス・マティーニ」として知られているスーパー・ハードな一杯だ。
まず冷凍庫で冷やした6オンスグラス(日本では通常90ml の3オンス)に、ビターズボトルに入れたドライベルモットをわずかひと振り、1ダッシュ注ぐ。つづいて冷凍庫でトロリと冷えたアルコール度数50度のジン、「ビーフィーター・クラウン・ジュエル」(現在は世界的に終売)を流し込む。
最後は、1個を6枚剥ぎにした大きなレモンピールを両手で持ってクィッと絞り込み、さらにそのピールをグラスの縁に擦り込んでからマティーニの中に沈める。氷は一切使用せず、もちろんステアなどしない。ベルモットは香りづけでしかなく、ほぼジンのストレートだ。
マティーニ・ファンであるならば一度は試しておくことをすすめるし、また一見の価値は大いにある。とくにレモンピールの扱いが何やら儀式的で美しく、おいしさを誘う。
ただし10年ほど前にジルベルトは引退した。いまは彼の右腕だったアレッサンドロ・パラッツィが「デュークス・マティーニ」を守っている。ジンはビーフィーター(47度)や12種のボタニカル(草根木皮類)の中に茶を加えたビーフィーター24(45度)などを使う。
アレッサンドロは「Fleming89」というウオツカ・ベースの新感覚マティーニを創案してもいる。これは007のジェームズ・ボンドとここのバーのつながりを伝えるものだ。
007の作者、イアン・フレミングは『ゴールドフィンガー』の中で、ボンドに「Vodka Martini.Shaken,not Stirred」と言わせた。このマティーニ・シェークの着想はデュークス・バーから生まれたという。ステアしないマティーニから、フレミングはシェークという変化球を生んだのだ。
では89とは、ボンドが愛するオードトワレ『FLORIS No.89』のことで、フローリスはホテルと同じ地区にあるジャーミンSt.89 番地に位置する天然香料の老舗であり、番地を香水に冠したものだ。
とはいっても「Fleming89」にトワレを使用している訳ではない。またデュークスらしく、ステアはなし。もちろんシェークなどしない。申し訳ないが、詳しいレシピについてはここでは紹介しない。あくまでジン・ベースのマティーニにこだわって語ることにする。