日本のカクテル史は横浜にはじまるとされている。幕末、長い鎖国時代の終焉を告げる日米修好通商条約が1858年(安政5年)に締結され、翌年には函館、新潟、横浜、神戸、長崎が開港された。
これらの地には外国人居留地が設けられた。とくに横浜は江戸の玄関口としての大きな役割を担うこととなる。海辺の小さな漁村であった横浜村が、世界的な港湾都市としての機能を果たすために激変していくなかで新たな施設としてホテルが生まれ、そのバーでカクテルが提供されていった。
まずバーの発祥。1860年(万延元年)、現在の山下町に外国人専用宿泊施設『横浜ホテル』が開業。オーナーはオランダ帆船の船長だった人物とされる。イギリス公使やシーボルト父子らも投宿したようだ。
このホテルにスヌーカー(ビリヤードの一形態)を楽しめるバー(プールバー)があったといわれている。ただし、1866年(慶応2年)に火災により焼失したため、それ以上の詳細は不明である。
その後も横浜ではいくつかホテルが誕生しているのだが経営が安定せず、倒産や休業といった状況がつづく。
そんななか、1873年(明治6年)に『横浜グランドホテル』が開業する。イギリス系の人たちの出資によって設立されたようだが、しばらくはこのホテルも経営が不安定で、経営者が何度も変わっている。とはいえ、料理は海外の客たちから高く評価され、賞賛されていた。
なんと日本のフランス料理の父とされるルイ・ベギューが『横浜グランドホテル』開業と同時に料理長に就任していたのである。
ベギューは明治元年、維新政府の意向により東京で開業した外国人向け本格的西洋ホテル『築地ホテル館』(1868~1872/火災により焼失)の初代料理長であった。宮中晩餐会はもとより新政府が海外高官を招いて催す晩餐会の料理はすべて彼が取り仕切り、また『築地精養軒』開業時には調理指導をしたともいわれている。
ベギューは『横浜グランドホテル』に2年間勤めた後に独立し、神戸、東京、横浜などでレストランを開き、1887年には『神戸オリエンタルホテル』を創業した。フランスから一流の料理人を呼んで日本人コックの指導に当たらせ、関西の西洋料理の礎を築いたとされる。
そして『横浜グランドホテル』で料理修行したひとりに吉川兼吉がいる。吉川はその後『鹿鳴館』を経て、1890年(明治21年)に日本の迎賓館として開業した『帝国ホテル』の初代総料理長となった。
横浜と海外との定期航路が結ばれるようになると、国際都市としての充実が急務になっていた。そして1889年(明治22年)に『横浜グランドホテル』がしっかりとした資本による株式会社組織になる。
同時にサンフランシスコのホテルマンだったルイス・エッピンガーが招聘(しょうへい)され、『横浜グランドホテル』に着任(1891年より支配人)する。彼は新館の建設や設備充実に力を注いだ。豪華客船が就航する日本を代表する港湾都市の象徴となり、海外のミリオネアを満足させる格調高いホテルとして世界的な地位を築き上げた。
さらにはバーテンダーでもあったエッピンガーは1890年に「バンブー」(諸説あり)、1894年に「ミリオン・ダラー」という二つのカクテルを誕生させる。そのレシピは豪華客船によって世界の港に伝わり、横浜を“日本のカクテル発祥の地”として語らせることになる。
ただし、当時このホテルに出入りする日本人は限られていた。海外からのミリオネアには人気の高いカクテルも、日本人でその味わいを堪能できたのは一握りであった。
エッピンガーのカクテルの味わいを大衆に広めたのは浜田晶吾である。浜田は『横浜グランドホテル』でエッピンガーの下で修行。欧米に比肩する国際社交場として、1922年(大正11)に開業した『東京會舘』にチーフバーテンダーとして迎えられる。ところが翌年の関東大震災により休業(1927年復活)となったために、日本の街場のバーの先駆けとされる銀座の『カフェー・ライオン』に移る。ここで浜田は本格カクテルを提供したのである。
とくに「ミリオン・ダラー」は大人気となった。関東大震災の年に文藝春秋社を立ち上げた菊池寛は、1926年(昭和2)の読売新聞紙上に“酒ならば、コクテール。コクテールならば、ミリオン・ダラー・コクテール。雑誌ならば、我が文藝春秋”のキャッチコピーで広告を打った。一般大衆にとってカクテルは流行の最先端であり、「ミリオン・ダラー」はその象徴的な一杯であったことを物語っている。
当時は加糖したジン、オールド・トム・ジンをベースに、スイートベルモット、パイナップルジュース、グレナデンシロップ、卵白を使用して「ミリオン・ダラー」はつくられていた。現在の味わいよりも甘みは強かったはずで、しかもフルーティーで飲み口がよく、受け入れられやすかったのだろう。
いまはドライジンでつくられる。ジンの風味と他の素材の甘みと酸味が卵白とともにシェークされ、ふんわりとしなやかなバランスのよい味わいに仕上がる。その昔よりもすっきりとした口当たりであるといえよう。
さて、ルイ・ベギューは生没年不詳。ルイス・エッピンガーは1906年に母国アメリカから新しい支配人を招聘し、引退。1908年(明治41)、77歳で生涯を終えた。彼は横浜外国人墓地に埋葬された。
そして1923年、関東大震災によって『横浜グランドホテル』は崩壊、焼失。変貌しつづける時代の激しい波しぶきを浴びながらの航海は50年で幕を閉じる。悲報は海外でも大きく取り上げられた。
(*現在、横浜にある1927年創業のホテルニューグランドと横浜グランドホテルとの継承関係はない)