Liqueur & Cocktail

カクテルレシピ

シンガポール・スリング

ビーフィーター47 45ml
レモンジュース 15ml
シュガーシロップ 1tsp.
ソーダ水 適量
ヒーリング チェリー 10ml
シェーク/タンブラー
シュガーシロップまでをシェーク。氷を入れたタンブラーに注ぎ、ソーダ水を満たし、ヒーリングチェリーをドロップ。フルーツを飾り、マドラーを添える

幻に終わりそうになったオリジナル

今年、誕生100周年を迎えたカクテルがある。「シンガポール・スリング」。シンガポールのラッフルズ・ホテルで生まれた。オリジナルとアレンジの両方のレシピが存在するカクテルとしても知られる。

1887年12月に開業したこのホテルの現在に至る豪奢なコロニアル様式の外観が完成したのは1899年のことになる。この後“スエズ以東において最も素晴らしいホテル”と呼ばれ、世界の名士が訪れようになった。そして1915年に「シンガポール・スリング」を創作したのはこのホテルのバーテンダーだったニャン・トン・ブーンである。

ラッフルズ・ホテルについて語る上でよく使われるのが、作家サマセット・モームの“東洋の真珠”という賛辞である。わたしはラッフルズの名を耳にすると、ホテルを讃えたモームは、はたして「シンガポール・スリング」のオリジナルを美味しいと感じたかどうか、想いは必ずそこへと向かう。


サマセット・モームがイギリス諜報機関の一員としてスパイ活動をしていたことは広く知られている。イアン・フレミングの007シリーズ誕生にはモームの存在がヒントのひとつになっているとも言われている。

1874年にモームはパリに生まれた。4人兄弟の末っ子だった。両親はイギリス人である。父はパリ英国大使館付きの弁護士、母はパリ育ちで社交界の華であった。

しかしながら母は1882年に5番目の子の死産に見舞われた数日後に他界。父はその2年後に癌で他界する。彼はわずか10歳で孤児となり、南イングランドで牧師をしていた叔父に引き取られるという苦労を味わっている。

モームはドイツやロンドンの大学で医学を学び、小説や戯曲も書くようになる。第一次世界大戦の最中に『人間の絆』(1915年)を発表。その大戦中、イギリス赤十字に軍医として入った彼を政府はスカウトした。知名度や語学力、幼少期に備わったコスモポリタンな感覚が諜報員としてふさわしかったのである。

以来、40代からおよそ30年という年月を作家として、スパイとして生きている。革命阻止のためにロシアへ派遣され、また南太平洋へはドイツの動向調査で赴いた。この地での体験から生まれた作品が画家ゴーギャンをモデルにしたといわれている作品『月と6ペンス』(1919年)である。


モームは東南アジアも旅した。親日作家として来日してもいる。こうした動きは大日本帝国の軍事関係調査が目的である。シンガポールにも滞在し、ラッフルズ・ホテルに宿泊した。そこで「シンガポール・スリング」を一度くらいは試した、かもしれない。でも、飲んではいないかもしれない。

実はこのカクテル、人気がなかった。オリジナルは甘過ぎるのである。カクテル通ならば、ゴチャゴチャとたくさん混ぜ込むレシピを見ただけで、敬遠するであろう。人気薄に加え、創作したバーテンダーが退社したこともあって、1930年代には忘れられてしまったらしい。

名物として復活したのは創作者の甥である、ロバート・ニャンが1950年代にバーテンダーとして入社してからだそうだ。

だからモームは飲んでいないのでは、とわたしは推察する。彼の作品からは、ウイスキー&ソーダがふさわしい、と勝手な想像を膨らませている。スパイが赤く甘ったるいカクテルを飲むのをイメージしたくない、という気持ちもある。

月と6ペンスの世界

オリジナルではなく、一般的に知られているレシピを紹介しよう。オリジナル・レシピはあえて紹介しない。現地、ラッフルズ・ホテルのロング・バーへ行って土産話に飲んでいただきたい。

日本の多くのバーで「シンガポール・スリング」をオーダーすると次のような材料でつくってくれる。

ドライジン、チェリーリキュール、レモンジュース、ソーダ水。わたしの好みの味わいは、ジンはビーフィーター47、リキュールはヒーリング チェリーでつくったものだ。ヒーリング チェリーは最後にドロップしたい。

こちらのレシピのほうがオリジナルよりもはるかにすっきりとした甘さで飲み心地がいい。だからこそ100年後も「シンガポール・スリング」は飲まれ、一方でオリジナルがラッフルズ・ホテルでつくりつづけられているからこそ、語りつがれていくのだろう。


さてサマセット・モーム。第二次世界大戦時にはドイツに目をつけられてしまい、アメリカに渡ることになる。アメリカでも執筆をつづけたが、ほんとうのところはCIA創設のアドヴァイザーのひとりであり、アメリカ国内でのドイツの工作活動を抑え込む任務があったとされている。

凄まじいというか、常人の想像を超越した人生である。文学者たちは『月と6ペンス』の月は夢や幻、6ペンスは現実を意味しているという。モームは創作世界で幻に遊びながら、スパイという現実世界で生きたのかもしれない。

いや、彼にとってはどちらも幻であり現実であろう。「シンガポール スリング」にオリジナルとアレンジがあるように。

イギリスで6ペンス銀貨は現在つくられていない。しかしながら『マザーグース』のなかにあるひとつの歌によって、花嫁が左足の靴の中に入れると幸運が訪れるとされ、この銀貨は人から人へと受け渡されて現在も大切に扱われているという。

そんな慣しもあることから、グラスを赤く染めた「シンガポール・スリング」を目にする度に、モームは“すべて、うたかた”と言いたかったのではなかろうか、との想いを強くする。

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第12回「さくらんぼの実る頃」ヒーリング チェリー

イラスト・題字 大崎吉之
撮影 川田雅宏
カクテル 新橋清(サンルーカル・バー/東京・神楽坂)

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