今年、誕生100周年を迎えたカクテルがある。「シンガポール・スリング」。シンガポールのラッフルズ・ホテルで生まれた。オリジナルとアレンジの両方のレシピが存在するカクテルとしても知られる。
1887年12月に開業したこのホテルの現在に至る豪奢なコロニアル様式の外観が完成したのは1899年のことになる。この後“スエズ以東において最も素晴らしいホテル”と呼ばれ、世界の名士が訪れようになった。そして1915年に「シンガポール・スリング」を創作したのはこのホテルのバーテンダーだったニャン・トン・ブーンである。
ラッフルズ・ホテルについて語る上でよく使われるのが、作家サマセット・モームの“東洋の真珠”という賛辞である。わたしはラッフルズの名を耳にすると、ホテルを讃えたモームは、はたして「シンガポール・スリング」のオリジナルを美味しいと感じたかどうか、想いは必ずそこへと向かう。
サマセット・モームがイギリス諜報機関の一員としてスパイ活動をしていたことは広く知られている。イアン・フレミングの007シリーズ誕生にはモームの存在がヒントのひとつになっているとも言われている。
1874年にモームはパリに生まれた。4人兄弟の末っ子だった。両親はイギリス人である。父はパリ英国大使館付きの弁護士、母はパリ育ちで社交界の華であった。
しかしながら母は1882年に5番目の子の死産に見舞われた数日後に他界。父はその2年後に癌で他界する。彼はわずか10歳で孤児となり、南イングランドで牧師をしていた叔父に引き取られるという苦労を味わっている。
モームはドイツやロンドンの大学で医学を学び、小説や戯曲も書くようになる。第一次世界大戦の最中に『人間の絆』(1915年)を発表。その大戦中、イギリス赤十字に軍医として入った彼を政府はスカウトした。知名度や語学力、幼少期に備わったコスモポリタンな感覚が諜報員としてふさわしかったのである。
以来、40代からおよそ30年という年月を作家として、スパイとして生きている。革命阻止のためにロシアへ派遣され、また南太平洋へはドイツの動向調査で赴いた。この地での体験から生まれた作品が画家ゴーギャンをモデルにしたといわれている作品『月と6ペンス』(1919年)である。
モームは東南アジアも旅した。親日作家として来日してもいる。こうした動きは大日本帝国の軍事関係調査が目的である。シンガポールにも滞在し、ラッフルズ・ホテルに宿泊した。そこで「シンガポール・スリング」を一度くらいは試した、かもしれない。でも、飲んではいないかもしれない。
実はこのカクテル、人気がなかった。オリジナルは甘過ぎるのである。カクテル通ならば、ゴチャゴチャとたくさん混ぜ込むレシピを見ただけで、敬遠するであろう。人気薄に加え、創作したバーテンダーが退社したこともあって、1930年代には忘れられてしまったらしい。
名物として復活したのは創作者の甥である、ロバート・ニャンが1950年代にバーテンダーとして入社してからだそうだ。
だからモームは飲んでいないのでは、とわたしは推察する。彼の作品からは、ウイスキー&ソーダがふさわしい、と勝手な想像を膨らませている。スパイが赤く甘ったるいカクテルを飲むのをイメージしたくない、という気持ちもある。