大好きなカクテルを紹介するのはなかなか厄介なことだ。「シャムロック」なのだが、どう表現してもこの一杯が抱いている世界観をうまく伝えられない気がして文章にするのを避けてきた。思い入れが強すぎるのだ。
この連載第11回『緑の祝祭日』の末尾でちょっとだけ触れてはいる。おさらいすると、「シャムロック」はアイルランド共和国の国花である。シロツメクサ(マメ科クローバー)やミヤマカタバミ(カタバミ科)など葉が三枚に分かれている草の総称。アイルランドの守護聖人、聖パトリックが三枚の葉を用いて、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三位一体を説いた。
読み返すと“基本レシピはシェークだが、わたしはステアを好む。ステアの切れ味が、もの悲し気な緑の大地に優しく愛をささやく清々しい風を想起させる”と述べていた。
いまでもステアで「シャムロック」を飲んでいる。アイリッシュウイスキーとドライベルモットを同量、シャルトリューズ ヴェールとミントリキュール微量のシェークから生まれる柔らかいニュアンスではない。ステアのマティーニ的なドライな感覚がアイルランドの歴史風土に合っているような気がする。
わたしはウイスキー40ml、ベルモット20mlに変えて味わう。この配合でステアによって紡いだ風味は、涼やかな緑とも荒寥(荒涼という漢字とは違う)ともいえ、そこに生きる人々の愛や切なさを伝えてくる。哀愁という文字では片付けたくない、という気持ちもある。
このカクテルをひと口啜ると、耳の奥である曲が響はじめる。かつて松本英彦というテナーサックスの名演奏家がいたことをご存知だろうか。彼のサックスの音色が静かに流れてくるのだ。メロディとともに自分だけの世界に佇み、時々によって浮かび上がるいろいろな想いを噛み締めていく。
松本氏は1963年、日本人プレーヤーではじめてモントレー・ジャズフェスティバルに招待された。2000年に73歳で逝去されたが、晩年は銀髪というべきか白髪で、伸ばした髭まで白く、サングラスをかけてサックスを吹く姿はダンディズムそのものでとても素敵だった。
『スターダスト』『ハーレム・ノクターン』『ブラック・アイズ』などこころに残る名演奏がたくさんあるが、わたしがはじめて彼の演奏で聴いたのは『ダニー・ボーイ』だった。小学生であったか、中学生の時だったかはもう忘れてしまった。とにかく40年以上前のことになる。シブイなんてもんじゃなくて、芸術だと思った。ハスキーなテナーサックスの音に脳天が痺れた。
そして『ダニー・ボーイ』という曲が大好きになる。歌詞も調べてみた。戦場に赴く息子を思う親のこころを描いたものだった。しばらくして原曲はアイルランド民謡である『ロンドンデリーの歌』だと知った。いろんな歌詞で、いろんな歌手が歌っていることもわかった。ただし、この曲にまつわる伝説はさまざまにあり、とくに源流については明確ではない。
緑の大地、エメラルド島と呼ばれるアイルランド島。アイルランド共和国と英国の北アイルランドに分かれている。現在、ロンドンデリーという街は北アイルランドに属しているが、わたしにとっては政治的なことはどうでもよくて、松本氏のサックスに魅了されて以来、『ロンドンデリーの歌』はアイルランドのイメージそのものになってしまっている。
近年、女性ボーカルグループ、ケルティック・ウーマンによってアイルランド民謡が広く知られるようになった。彼女らが歌う『サリー・ガーデン』もこころに響く。『ロンドンデリーの歌』の旋律をもとにつくられた『ユー・レイズ・ミー・アップ』も名曲だ。
でもやはり彼女たちの『ダニー・ボーイ』を聴くと引き込まれてしまう。そして松本英彦氏のサックスの音が無性に恋しくなる。そして「シャムロック」の味わいが鼻の奥によみがえってくる。
以前、音楽に精通している友人にバーでサックスと『ロンドンデリーの歌』の話をすると、「そんな音楽の聴き方もあるのか。普通、アイルランド民謡で楽器といえばハープやフィドルを思い浮かべる。テナーサックスというのはかなり味わいが違う。多感な年齢を迎えた男の子のこころを、松本さんのサックスの音が電磁波のように痺れさせたんだな」と面白がってくれ、子供に与える最初のインパクトの大きさについて長々と語り合うことになった。
その友人が、松本氏のサックスの『ダニー・ボーイ』にふさわしい酒はやはりアイリッシュウイスキーがいいのか、と聞いてきた。わたしはウンとうなずきながらも、実はカクテルで見事にはまる味わいがあると答え、それをバーテンダーにオーダーした。
ところが「シャムロック」をオーダーした瞬間、後悔する。サックスとアイルランド、アイルランドと「シャムロック」のつながりは自分だけの世界だったはずなのに、なんで他人に教えちゃったんだろうと苛立った。適当なアイリッシュウイスキーの名を告げておけばよかったのに、と自分を責めた。
その後しばらくしてバーでひとり「シャムロック」を飲みながら、わたしはこころの狭い人間なのだろうか、と自問自答した。
まあ、後悔してもしょうがない。だから今回、文章にした。ならば、みんなに教えちゃえ、との結論に達したからだ。めでたし、めでたし、なのだ。