Freedom an' whisky gang thegither!
Tak aff your dram!
自由とウイスキーは共に手をとって進む!
いざ、乾杯!
"The Author's Earnest Cry and Prayer" Robert Burns
やがて大麦は刈り取られ、麦の束が神への感謝の印として捧げられる。殻竿で麦を打ち、扇いで籾殻を吹き分けると、最後に麦の穂が明るい黄金の山となって残る。それは、いのちの糧である」
ウイスキーが最初につくられる瞬間を想像して、1935年、そのイメージをこんなふうに書き始めたのは、ハイランドの元税務署員でウイスキーの歴史家、そして哲学者のニール・ガン Neil Gunn である。
「こうして単純な方法で集められた穀粒は、碾かれ、発酵へと導かれる。この発酵したアルコール液を煮立てると蒸気が立ちのぼってくる。そして運がよければ、蒸気が冷たいものに当たって凝縮する。するとどうだ! 緑がかった黄色をした粥状の発酵液から立ちのぼる蒸気――それが凝縮したものは、水晶のように透明である。冷やして指で触れてみると、氷よりも冷たい。口に含んでみると……これはどうだ。歯ぐきがカーッと火のように熱く、喉は焼け、その炎は腹の底を通り抜け、指先、足の先、そして最後は頭へと突き抜けていく。
それから顔が上がる。瞳はきらきらと輝く。急に笑いがこみあげ、跳ねまわりたくなる。そうかと思うと突然動きを止めて、自分自身を驚くほど子細に眺める……。腕の筋肉を動かしてみる。力があふれ、一方の拳、次いでもう一方の拳が勢いよく飛び出る、右、左。足にも同じく力がみなぎっている。素朴な“奔放さ”につき動かされ、踊り始める。彼が飲んだものは、明らかに水ではなかった。それは“いのち”だった」
もっと正確に言えば、それはスコットランド人が“ウスケボー(いのちの水)”と呼んだものである。ニール・ガンの詩的考察は奇抜だが、真実からさほどかけ離れたものではない。最初にウイスキーづくりが試みられてから19世紀に至るまで、蒸溜はおおむね家内工業であり、四季の変化と密接なつながりをもっていた。
ハイランド人は寒さに強い大麦の種子を春に蒔き、晩夏に収穫して、ひと冬かけて穀粒を乾燥させた。断裁された麦藁は、家畜の飼料や農家の床の断熱剤に使われた。
春3月になると川の氷が解け、蒸溜作業が始まる。農家の一隅で小型の銅製ポットスチルが、ピートの塊を燃料として加熱される。自家製大麦と川の水を混ぜ合わせ、発酵させた液体がスチルで沸騰し、立ちのぼる蒸気は水中のチューブに導かれ、冷やされて液体となり、酒精分が得られる。原始的なポットスチルでの蒸溜は、ビールをやかんで煮立てて、その蒸気を冷やすようなものだった。
蒸溜したての未熟成の酒は、すぐに飲用する場合は水差しや小型の樽に移し替える。ウイスキーは宴会の席で共に飲む酒であり、薬効があると信じられ、クラン内では品物や労働に対する返礼として、また借地料代わりにも使われていた。ウイスキーはしだいに生活の柱となっていく。
一時は通貨に近いかたちで、物々交換に用いられていた。16世紀、キンタイア Kintyre のある農家は借地料として、ウイスキー6クォート(6リットル弱)を支払っている。
ウイスキーの原料となる大麦もまた、クランの首長への借地料の代わりに使われていた。蒸溜に必要以上の大麦が集まったときには、クラン内でこれをエールの醸造にまわすこともあった。しかし、村の生活の中心は、あくまでもウイスキーだった。余剰の穀物があれば、金や銀より換金性の高いウイスキーをつくらない農民はまずいなかった。
事あるごとに権威を誇示したがる強大なスコットランド教会は、日曜日の飲酒に反対し、1579年には早くもウイスキー排斥運動を開始した。以後、禁酒を奨励するため、ウイスキーの蒸溜に規制が加えられるようになるのである。
議会もまた泥酔や犯罪行為に懸念を抱き、1609年には酔漢の一団が暴動や喧嘩騒ぎを起こしたのを受けて、ウエスタン・アイルズ Western Isles 内のウイスキーを没収しようとした。だが地酒の没収は、結果的に密造を誘発しただけだった。
ウイスキーは日々の暮らしの奥深くに織り込まれていた。ウイスキーづくりを規制しようとか、その販売を制限しようとか、庶民の手に届かぬように課税しようといった不当な試みがなされるたびに、善良なスコッツたちの反骨の血が騒ぎだすのだった。
1644年、スコットランド議会は王党派との内戦で困窮したオリバー・クロムウェル Oliver Cromwell 率いるロンドンの議会派を支援するため歳入を増やそうと、初めてウイスキー税を導入した。スコットランド・パイント(イングランド・パイントの3倍)当たり旧2シリング8ペンスの税金は、スコットランド全域に怒りを呼び起こした。数カ月のうちに、スコットランドのほぼ全域が密造地帯と化したのである。
「ほとんどの国民が密造にかかわった。スコットランド全体で酒税を払っていたのは、合法的に製造されたごく一部のウイスキーだけだった」とウイスキーの歴史家スティーヴ・シレット Steve Sillett は語る。
彼のウイスキー密造史に対する興味は、ハイランドの蒸溜所27カ所の徴税官をしていた時代に芽生えたものだ。7年間の研究をまとめあげた著書『密造スコッチ Illicit Scotch』は、この分野の権威書となっている。
徴税官たちがまともな道路もないスコットランドで税金を取り立てるという困難な仕事に取り組む一方で、税金を逃れる手口も巧妙さを増していった。流血の小競り合いの記録も数々残っているが、おおむねハイランド人たちは機知と奸策で窮地を切り抜けてきたようだ。
「たとえばカークウォール Kirkwall の市庁舎では、巡回してくる徴税官を迎えて豪華な宴会がたびたび開かれた」とスティーヴ・シレットは付け加える。
「その目的はただひとつ、地元の参事官たちが徴税官の密造摘発計画の情報をできるだけ多く集めるためだった」
17世紀末には、ウイスキーは労働者の賃金代わりにされるほどに普及したため、蒸溜税を引き上げる法令が発布された。1681年には、あらゆる地域で麦芽税 malt tax が課せられた。1695年になると、蒸溜酒1パイントにつき2シリングの課税が行われた。同じ年のうちに麦芽税は廃止されたが、喜んだのもつかの間、蒸溜税は1パイント当たり旧3ペンスずつ引き上げられてしまった。
「スコットランド北西の沖合に浮かぶルイス Lewis 島では密造がおおっぴらに行われていて、地主は地代の代わりにウイスキーを喜んで受け取っていたし、借地人は小作人にオーツ麦を与えて蒸溜を行わせていた。
密造者も借地人も地主も、互いに持ちつ持たれつの関係だった。それに、役人がわずかな罰金しか科さなかったので、それ相応の見返りがあるウイスキーづくりをやめる理由などなかった」とスティーヴは説明する。
役人たちは、明らかに密造者側に立っていた。役人の多くが当然、密造で役得を享受していたのだ。そして何百ポンドもの利益を上げている場合に限って、2〜3ポンドの、申し訳程度の罰金を科すだけだった。
テイン Tain に住む地主兼役人のウィリアム・マレー William Murray なる人物は、広範囲に住む密造者たちに大麦を供給していたことで知られている。多くの法律家が礼金をウイスキーで受けていたし、役人も目こぼしの礼として、ウイスキーを受け取ることが多かった。あるキャンベルタウン Campbeltownの女性は自分を捕まえた代官に抗議した。
「この前あんたに贈ったウイスキー以来、一滴だってつくってねえだよ」
1725年にも、さらなる増税が行われた。今度は麦芽1ブッシェル(約36リットル)当たり旧3ペンスである。この増税による政府の純益はわずか2万ポンドだったため、ウォルポール Walpole 首相はむしろスコットランドにイングランドの権威を思い知らせることを狙っていたと考えられている。怒ったスコッツたちはグラスゴーで暴動を起こし、麦芽製造業者も徴税官の在庫検査を断固はねつけた。
1777年にはエディンバラだけで408基のスチルが存在したが、そのうち税金を払っていたのはわずか8基のみだった。このころには、ウイスキーはスコットランドの国民酒とされるほど普及し、中流・上流階級の人々は朝食にもウイスキーを嗜むほどになっていた。
当時のスコットランド人は、現代人の誰もが思い及ばぬほど大量のウイスキーやワインを消費していた。1770年にフランス人の旅行家ルイ・シモン Louis Simond は「平均的ハイランド人は、1日に約1クォート(1リットル弱)のウイスキーを飲んでいる」と記している。
「強い酒をそれだけ飲めるからには、昔から頻繁に大量の酒を飲んできたはずだ」と彼は観察する。実際、彼らはそうしてきた。深酒は16〜17世紀には珍しくなかった。
「居酒屋の主人には切れ目なく酒を飲ませようとワイングラスの脚を折ってしまう者もいたし、手から手へ渡さなければならない底の丸いボトルが常用されていた」と語るのはスティーヴ・シレットである。
「トースティング(乾杯)は夕食後に好んで行われた余興で、パースシャー Perthshire では、乾杯のときにグラスを空にできなかった客は、もう一度グラスを満たして乾杯するというルールがつくられていた」
地元の穀物と水さえあれば簡単につくれるウイスキーは、脱税が横行した農村地帯では、相変わらず安価な飲み物だった。たとえば1770年、フェリントッシュ Ferintosh とグレンリベット Glenlivet 産の最高級ウイスキーが1スコッツ・パイント当たり旧1シリング10ペンスであった。
1782年には1940のスチルが没収されたが、ウイスキー生産は一向に衰えなかった。当時、ウイスキーの蒸溜は愛国的行為ともなっていた。国民酒たるウイスキーを蒸溜することはスコットランド人の特権であり、それに対して税金を払う理由などないと、彼らは考えていたのである。
極上の密造ウイスキーはスペイサイド Speyside地方でつくられた。ここは今もスコットランドで最も蒸溜所が集中している場所である。グレンリベットだけで200基以上のスチルがあり、洞窟に隠したり、枝で覆ったり、梱包して夜間に馬で移動しながら操業されていた。仕込みの水は非常に重要と考えられ、スチルを水源に移すことが危険な場合には、蒸溜所を原野の奥深くに移したうえで、川の流れを変えてそこへ引き込み、用水を確保した。ダフタウン Dufftown 近くの反抗的な密造者たちも、夜の闇に隠れて1マイル(約1.6キロ)にも及ぶ溝を掘り、一帯の高峰ベンリンズ Ben Rinnes の湧き水を引き込んだ。この水は現在も、数軒の著名蒸溜所の仕込みに使われている。
「最初にスチルから出てくる蒸溜液は、山の上で祝杯を上げるときのために別にして取っておいた」とスティーヴ・シレットは言う。
「そして、夜更けになると時期到来! 翌日、昼食前に帰宅する密造人はまずいなかったそうだ(笑)」
スコットランドで最も往来の激しい道路といえば、密造者たちが大麦やモルトを秘密のスチルへ運んだり、ポニーを連ねて完成品のウイスキーの樽を運んだりする丘越えのウイスキー街道だった。南部の都市に大量のウイスキーを運ぶため、150頭以上の駄馬の行列が通過する街道もあった。
これらの古い街道には“The Beatshach(ガタガタ道)”とか“The Ladder(ハシゴ坂)”、“Jock's Road(博労街道)”、“The Fungle(おどおど通り)”といった名前があり、現在も農道や荷車用の道路として残っているが、ハイカー以外にはほとんど使われていない。また、ウイスキー街道が地図に載ることはなかったので、全長がどれくらいなのか誰にもわからない。その長さも徒歩1時間の田舎道から全行程が8時間に及ぶものまでいろいろあり、スコットランドで最も眺めのよい道も多かった。
「ハイランドでは、ほとんどの農家に自家用スチルがあって、さまざまな醸造・蒸溜作業を進めるときも、巡回徴税官の到来を知らせ合うときにも、いろいろと知恵を出し合っていた」とスティーヴは言う。
「農民たちは、馬に乗った徴税官が近づいてくるのを見ると、ピートの山の上に大急ぎで旗やシーツを掲げ、警戒を呼びかける。そうすると、誰もが大切なウイスキー蒸溜用の道具を隠せたわけだ」
「19世紀初めのスターリング Stirling のある裕福な旅籠の主人は、ウイスキーの在庫補充が必要になるたびに、ハイランド地方のパースシャーに向けて葬列を送り出した。同じような葬列の体裁で、密造ウイスキーを積んだ荷物が“グレンリベットの岸 Braes of Glenlivet”と呼ばれる川沿いの地域からダフタウンまで20マイル(約32キロ)の道を送られていくことも多かった。そんなとき、地元の徴税官たちは弔意を表して、遠くから見守ったらしい」
懸賞金をつけても、効果は上がらなかった。密造に手を焼く政府は「密造スチルを通報した者に5ポンドを与える」と発表した。ところが、密造者たちは持ち前の辛口のユーモアを発揮して、これを逆手に取った。
手づくりスチルのなかで最も費用がかかる部品は、ウォームという螺旋状の銅製チューブである。釜からの蒸気は、水中のウォームに導かれ、冷やされて蒸溜液となり、壺や樽に流れ込む。このウォームが古びて使えなくなると、密造者たちは徴税官のもとにこれを提出し、密造を“発見した”と偽って賞金の5ポンドを要求。その金で新しいウォームを買ったのである。
1689年、英国ではカトリック教徒のジェームズ James 2世が名誉革命によって退位し、新教徒のメアリー Mary 女王が即位したが、その後もスコットランドを中心とするカトリック勢力はジェームズ2世、あるいはその血統に属するステュアート家の復位を目指していた。
ジェームズ2世の息子のうち、唯一存命のジェームズ James Francis Stuart は1745年、英国王位に名乗りを上げるため、亡命先のフランスからボニー・プリンス・チャーリー(端正な王子)の愛称で名高い息子チャールズ・エドワード・ステュアート Charles Edward Stuart を名代として帰国させた。チャールズ王子は航海の資金を調達するため、手持ちの宝石類を質に入れた。しかし、兵士たちを乗せた2号船が嵐に遭遇し、スコットランドに上陸したときには随員わずか7名であった。チャールズはハイランドの人々に支援を求めるため、猛然と活動を開始した。
チャールズ王子とその忠臣たちは5カ月にわたりハイランドを巡回し、各クランの首長を訪ね歩く。王子のベルトにはウイスキーの瓶が提げられていた。ウイスキーがハイランドの象徴であったからというだけでなく、自ら元気をつけるためでもあった。むろん、王子はウイスキー好きだったのだろう。マクドナルド家の首長と会見したときには、三昼夜にわたってウイスキーを飲み続けた。さすがのバルシェア Baleshare のマクドナルドも「われわれより強い」と舌を巻くほどだったという。
王子を支援する勢力はしだいに増えていった。1745年にグレンフィナン Glenfinan で反乱の旗を揚げ、同年9月には首都エディンバラを陥落、プレストンパンズ Prestonpans の戦いで圧倒的な勝利を収めた。ボニー・プリンス・チャーリーをスコットランドの救世主と崇めてますます膨れ上がる軍勢を率い、王子はついに国境を越え、ロンドンを目指して250マイル(約400キロ)の進軍を開始した。途中、カーライル Carlisle を落して、ミッドランド Midlands まで来たところで、イングランド軍の圧倒的兵力の前に退却を余儀なくされた。
チャールズ王子はフォルカーク Falkirk で最後の大勝を収めたあとは敗走し、追いすがるイングランド軍に1746年4月、カローデンの戦いで決定的な敗北を喫した。この戦いは、イギリス本土で行われた史上最後の戦争となった。
チャールズ王子は変装してスカイ Skye 島に逃れ、しばらく身を隠したあと、1746年9月にフランスへ向けて出航。そして、愛するスコットランドを再び見ることなく、1788年、失意のうちにローマで客死した。
こうした厳しい弾圧政策のもと、イングランド政府はウイスキーに対する懲罰的課税をさらに重くしたため、多くの蒸溜所が廃業に追い込まれた。ウイスキーの密造はタータンを密かに着用するのと同様、英雄的な行為となった。ハイランド人にとってウイスキーづくりは、燃料を集め、穀物を栽培し、牛を飼う権利と同じくらい重要な生活手段のひとつだった。生きることの一部としてウイスキーの蒸溜があり、したがって、ウイスキー密造はイングランドの弾圧に対する誇り高き抵抗の行為とみなされたのである。
スコットランドの国民詩人ロバート・バーンズは「自由とウイスキーは共に手をとって進む!」と書いた。そして、反抗心旺盛な何千ものスコットランド人がバーンズの言葉に共鳴して、これをスローガンに掲げた。この一節はバーンズの『作家の熱烈な叫びと祈り』の結びの言葉であり、 ウイスキーを守るため、ロンドンにいる政治家に訴えかけたものだ。多くのスコッツと同様、バーンズも貪欲なウイスキー税、スコッチ・ウイスキーをジン並みの高級品にするための増税、そしてイングランドによるスコットランド文化全般への弾圧が、ウイスキーを深刻な危機に陥れているのだと考えていた。
立て、諸君。勇敢に。
母なるスコットランドのやかん奪還のために。
“スコットランドのやかん”とはウイスキーを蒸溜するポットスチルにほかならない。同時に、スコッツ魂を育む祖国の自由をも意味している。スコットランドでは、自由とウイスキーとはまさに一体なのである。
しかし政府は、経済学者アダム・スミス Adam Smith の教えを断固実行しようとした。スミスは説いていた。
「大英帝国はかなり以前から、民衆の健康を害し、道徳を腐敗させる傾向があると思われる蒸溜酒類の飲用を阻止する政策を取ってきた。この政策に従い、蒸溜所に対する税金の減額は、これらの蒸溜酒類の価格を低下させるほど大きなものであってはならない」
だが政府はもちろん何者も、ウイスキー密造の流れを止めることはできなかった。教会でさえ、ほとんど無力だった。
牧師に違法蒸溜をとがめられたある密造者は「おらのスチルは、どこへ出しても恥ずかしくねえだ」と言い張った。
「すべて正しく、きちんとやっております。どこにも、悪いところなんてごぜえやせん」
政府は性懲りもなく、税金の取り立てを強化した。徴税官が密造者を追跡したり、税金を取り立てやすいようにするため、新しい道路もつくられた。1820年には1万4000回以上の捜索が行われたが、これが当たり前のことだった。当局はそれでもなお、税金の徴収に手を焼いていた。
当時、ウイスキーは需要がきわめて高かったため、熟成期間を置かずに、スチルから直接販売されていた。熟成効果を知っていたのは、ウイスキーをワイン樽やシェリー樽に保存していた少数の貴族やハイランドの上流階級の人々だけだった。蒸溜したてのウイスキーの強烈で粗削りな味を和らげるため、タイム、ハッカなどの香草や砂糖、香辛料などが加えられた。荒々しく、スモーキーフレーバーの強い、ツンとくる辛みを抑えるため、果実の風味を加えたコーディアル、果汁を混ぜたパンチ、あるいはトゥディにして飲まれることも多かった。
だが、密造を余儀なくされたことで、思いがけない余祿もあった。徴税官の目を逃れようとして丘陵地帯の奥深くにスチルを移したことで、きわめてピュアな仕込み用の水に出会うことができたし、ピートや大麦も豊富に得られるようになったのである。
とかくするうちに、ハイランドの認可を受けた合法的な蒸溜所では、スチルの形や発酵液のアルコール度などに官僚主義的な規制が加えられたため、ウイスキーの質が落ちてしまった。これでは、スチルのまわりで眠るような熱心な男たちの手で、秘密裏に大事に手づくりされる密造ウイスキーにかなうはずがない。
結局、認可を受けている蒸溜所は規制を破るか、密造者がつくる高級ウイスキーに市場を奪われるかの、どちらかを選ばざるを得なかったのだ。
19世紀初頭になるとウイスキーは急速にスコットランド最大の産業のひとつに育っていく。生産されるウイスキーの半分は密造で、その多くは蒸溜税のために破産したベテランの蒸溜業者が製造したものだった。過酷な課税ゆえに、最も優れたウイスキー製造業者たちは商売を断念せざるを得なかった。
合法的に蒸溜されたスコッチ・ウイスキーの50%を製造していた5つのウイスキー会社が、5社合計で70万ポンド(現在の物価に換算して1億5000万ポンド以上)の税金を未納のまま、1788年に廃業している。
そして、タータンやウイスキーをはじめとする“スコットランド的なるもの”が、ことごとく復活することになる。国王の乾杯は間接的なかたちで、両国のあいだに横たわる溝を埋めるのに役立ったのである。
同じ年に、スコットランド最大の土地所有者のひとり、ゴードン Gordon 公爵が英国上院を説得し、ウイスキーの蒸溜を合法化させるのが得策であることを認めさせた。ウイスキーはハイランドの伝統的飲料であり、その蒸溜を根絶するのはいずれにせよ不可能である――と訴えたのである。密造業者を日の当たる場所に出してやるほうがよほど理に適っているというわけだ。
ウイスキー税の取り立てに力を注げば注ぐほど、出費が増えることに気づいた政府はようやく「密造根絶の唯一の方法は、一定の条件をつけてウイスキーづくりを奨励することだ」という結論に達した。賢者ゴードン公の口添えをきっかけにして、1823年、政府はついに折れて、誰にでも払える程度の蒸溜認可料を導入した。
真っ先に認可を取った蒸溜所に、バルブレア Balblair とミルトンダフ Miltonduff があった。そのモルトは現在、<バランタイン17年>の重要なモルト原酒となっている。
豊かな大麦畑に囲まれた地・ミルトンダフは、製造が切れ目なく続いた密造の一大中心地だった。今なお同蒸溜所に水を供給するブラックバーン the Black Burn という名の小川の水が、プラスカーデン Pluscarden 渓谷のいくつもの小さな密造蒸溜所に仕込みの水を供給していた。
ブラックバーンは聖なる水源と考えられており、近在のプラスカーデン修道院のベネディクト派の修道僧たちも醸造に使っていた。アルフレッド・バーナード Alfred Barnard は1886年、著名な紀行文『大英帝国のウイスキー蒸溜所 The Whisky Distilleries of The United Kingdom』の中で、15世紀のある年の元日、修道僧たちがエールづくりの前に水を讃える様子を書き記している。
「巡礼、神父らの立ち会いのもと、年老いた大修道院長が岸辺の石の上にひざまずいて手を差し上げ、この水に神の祝福をと祈る。以後、この水からつくられた、人に生気を与える酒は“アクアヴィテ”と呼ばれるようになった」
さらに、大修道院長がひざまずいた聖なる石はミルトンダフのモルト・ミル(麦芽製粉所)にはめ込まれたとバーナードは記録している。
早くから合法に転じたもう一軒の蒸溜所が、グレンドロナック Glendronach だった。<ザ・グレンドロナック>は1826年から製造されており、口当たりがなめらかで、バター風味のあるモルトウイスキーだ。蒸溜許可料制度の施行は現実的な措置として評価され、丘陵地帯の多くの蒸溜業者がこのチャンスに飛びついた。ウイスキーづくりは、家内工業から大規模な国際産業へと発展する第一歩を踏み出したのである。
しかし、一部の密造者は時代の変遷に追随することなく、密造時代の終焉とともに、静かな引退生活を選んだ。最も有名な密造者のひとりだったのが、ジェームズ・スミス James Smith である。地元で“ゴシェン”と呼ばれていた彼は、グレンドロナックに近いハントリー Huntly の出身だった。
「ゴシェンは品質だけでなく、生産量の多さからいっても、比類なきウイスキー密造業者だった」とスティーヴ・シレットは考えている。
「大勢の人々が訪れ、決して期待を裏切らない彼の誠実な仕事ぶりに誰もが称讃を惜しまなかった。そして、彼はおそらく、秘密を守ると誓った者にしかウイスキーの味見を許さなかったはずだ」
ゴシェンがついに逮捕され、徴税官の捜索を受けて告発されたとき、彼が払った罰金はわずか10ポンドだった。真の痛手は愛用のスチルが没収され、破壊されたことだ。これ以後、ゴシェンはウイスキーづくりをやめ、道具を失ったまま引退して、村の薬局の店主となった。
ウイスキー業界に平和が戻ると、ウイスキーはジョージ・バランタインのようなアントルプルヌール(起業家)が重要な役割を果たす“拡大と革新の時代”へと移っていく。