The Scotch

第4章
GEORGE BALLANTINE

ジョージ・バランタイン

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The social, friendly, honest man,
Whate'er he be,

'Tis he fulfils great Nature's plan
礼儀正しく、温かく、真面目な男。どんな仕事に就こうとも、
偉大なる自然の計画を成し遂げるのはこの男。

"Second Epistle to John Lapraik" Robert Burns


徒弟奉公

 1822年5月15日、馬に引かせた農業用の荷車が、ピーブルシャー Peebleshire のなだらかな丘陵地帯の道をガタガタとエディンバラへ向かっていた。しかし、農夫アーチボルド・バランタイン Archibald Ballantine にとって、それは町に作物を売りにいく、いつもの旅とは違う旅だった。この朝、彼は日曜日に着るよそ行きの洋服を着込み、ブロートン・ホーム Broughton-Home に所有する農場の市松模様の畑をあとにした。

 25マイルに及ぶ旅のあいだ、彼のかたわらには13歳の息子ジョージ・バランタイン George Ballantine が、固く糊づけした襟を気にしながら、旅行鞄をしっかりと抱きかかえていた。父子は弁護士に会うことになっていた。若いジョージを今後5年間、エディンバラで食料品とワイン、ウイスキー類を扱う商人アンドリュー・ハンター Andrew Hunter のもとで修業させるという書類にサインをするためだった。

 この日、弁護士と食料品商と農夫がその少年の徒弟契約書に署名したとき、彼らは自分たちがバランタインの名を世界中に広めることになる企業の出発点に立ち会っているなどとは、想像だにしなかっただろう。

 いろいろな意味で画期的な時代だった。ジョージ・バランタインが徒弟となった年、エディンバラの町は、スコットランドとの和平を実現するために儀礼訪問したキルト姿の大男、国王ジョージ4世を迎えていた。

 そして少年の徒弟契約書が署名された翌年、より公正なウイスキー蒸溜認可制度の発足により、密造の時代は終焉を迎えることとなった。折からモルトウイスキーがスコットランド経済の重要な位置を占めるようになっており、一層高まる需要に応えて、1824年には、新しく認可を受けた蒸溜所が毎週のようにオープンしていく。

 ハンター商会での5年間、ジョージは小麦粉やオーツ麦や乾物の袋を運びながら、高級ワイン、高級モルトウイスキーとは何たるかについて、専門的知識を身につけていった。そしてサーブの仕方や、どんな客に対しても礼儀正しくふるまう方法を覚えていく。彼は年季明けには独立して商売を興そうとしていた。意気込みが違うのである。寸暇を惜しんでアンドリュー・ハンターの厳しい教えを次々に吸収し、そのなかで自分の味覚を磨き、向上させていった。

 1827年5月15日、徒弟奉公を終えたジョージ・バランタインは物静かで頭の切れる、礼儀正しい若者に成長していた。辛口のユーモアをたたえた瞳の奥に、アントルプルヌールを目指す一途な思いが燃え盛っていた。ジョージの親方アンドリュー・ハンターは、年季奉公契約証文に、ジョージが徒弟修業のあいだ“忠実に、勤勉に、正直に”自分に仕えたことを美しい筆跡で記し、彼の前途を祝福している。

最初の店

 高級食料品や高級ウイスキーを売るには、願ってもない時代であった。農工業に革命が起きて労働形態が変わり、生産が機械化され、新たな富がもたらされていた。見事な建築物が立ち並ぶエディンバラは、スコットランド文化の中心地として、科学面では驚くべき進歩を遂げ、芸術面でもその黄金期を迎えていた。ジョージ・バランタインはこの町の富裕な商人や職人たちに交じって、自らの商才を発揮していく。

 経済の成長とともに発展を続けるウイスキー産業にも、冒険の機運がみなぎっていた。ジョージが徒弟奉公を終える数カ月前、ロバート・スタイン Robert Stein というウイスキー製造業者が、連続蒸溜式スチルの特許を取得していた。このスチルはまだ使い勝手が悪く、さまざまな制約があったものの、低価格の穀物蒸溜酒をつくるというアイデアは大いなる将来性を秘めていた。

 1827年、ジョージはわずかな蓄えの許す範囲で店舗を探し、エディンバラのカウゲート Cowgate に最初の食料品店を開いた。カウゲートは、エディンバラのなかでも、流行の先端を行くような地域ではなかった。街路は狭く、藁を積んだ荷車が行き来し、夜ともなれば荒々しい牛飼いたちが集まる旅籠が並ぶ、たてこんだ商業地区だった。

 ジョージ・バランタインがこの店で初めて扱った商品が何だったのか、誰から買い付けて誰に売ったのか……当時の記録は何も残っていない。青年起業家は、過去の記録を残すことなく前進したのである。そして、この騒がしく、それらしくない環境から、世界最高級のウイスキー会社のひとつの種子が芽を伸ばしていった。

 現在、バランタイン社は160カ国以上で高級ウイスキーの代名詞として知られている。それは、創業者ジョージ・バランタインがウイスキー商としての長い経歴を重ねていくなかで常に心がけた、妥協を許さぬ品質の追求によって可能となったのである。

駆け出し時代

 歴史の霧に隠されたバランタイン社の草創期の様子が次に垣間見えるのは創業から4年後の1831年のことである。この年、23歳のジョージはカウゲートからほど近いキャンドルメーカーズ・ロウ Candlemakers' Row に店を移したことがわかっている。この2番目の店もたちまち大評判を得た。

 “キャンドルメーカーズ・ロウ”はその名が示すとおり、もとは聖ジャイルズ St. Giles 教会の一角に固まっていた蝋燭製造職人たちが、大火のあとに引っ越してきた狭い通りだった。この辺りは製本業者、鞍づくり職人、ステンドグラス製造者など、専門の技術をもつクラフトマンたちが多く集まっていた。早くから酒類・食料品業界の専門家を志し、腕を磨いてきたジョージにはふさわしい場所だった。ジョージはハシゴに登って“ワイン・食料品商”と誇らしげに書いた、できたての看板を店頭に掲げたのである。

 若きアントルプルヌールは借家に住んで質素な生活を送り、商売を軌道に乗せることに全精力を注いだ。そして、その後も事業は発展し、集まってくる常連客の数もうなぎ上りに増えていった。

 1836年、28歳――独立後10年弱にして、彼はエディンバラの最先端を行くプリンシズ通りと目と鼻の先の、由緒あるサウス・ブリッジ South Bridge に店を出した。サウス・ブリッジはエディンバラ社交界の人々をはじめ、ジョージが最も得意とするタイプの顧客が集まる場所に近い。貴族や上流階級の人々のあいだで高級ウイスキーの需要は高まっていて、ジョージも当時エディンバラに集まってきた著名な文士、学者、医師たちを顧客として獲得していく。

 ジョージは高級ウイスキーに精通したアントルプルヌールである。もっと重要なことは、このとき彼がすでに品質の精選、そして誇りと一貫性と礼節をもって商売をするという、今日のバランタイン社の社是となる原則を確立していたことだ。

 ジョージ・バランタインの父アーチボルドは古くから続く農家の出身であった。一族の勤勉な気質を商売に生かしたのはジョージが初めてだった。プリンシズ通りの近くにあった有名な店舗の写真は今は残っていない。だが、似たような店の写真から推測すると、天井まで豆類、オーツ麦、スモークサーモンなど食通向けの各種食品が並び、またワインやウイスキーが棚を埋めていたことだろう。そして図書館にあるような、天井から吊り下げるキャスター付きのハシゴで商品を出し入れしていたに違いない。

 店の裏手には<グレンリベット>や新たに認可を得たスカイ Skye 島の蒸溜所がつくる<タリスカー Talisker>など、バランタインがとくに推奨するモルトウイスキーの樽が1つ2つ置かれていただろう。注文が来て、取引が成立すると、商品は馬に縛りつけて運ぶか、走り使いの少年が自転車で運んだであろう。サービスと品質のよさでバランタイン社の商売は繁盛した。こうした雰囲気――磨き込んだ木の温かな光と高級食料品・飲料が放つ芳香のなかで、高級ウイスキーのブレンディング技術が形成されていくことになる。

 1842年、ジョージはインヴァネス Inverness の穀物商の娘イザベラ・マン Isabella Mann と結婚し、エディンバラの高級住宅地、ジョージ広場の一角にある豪壮な邸宅に引っ越した。やがて息子アーチボルド Archibald とジョージ George 2世が、さらには孫のジョージ3世が創業者のジョージを引き継いで事業を拡大していく、その基礎ができたのである。

ブレンディングの誕生

 ファイフシャー Fifeshire の蒸溜業者ロバート・スタインは、グレーンウイスキーを連続的に蒸溜できる原始的なスチルを開発した。1831年には、ダブリン Dublin で物品税取締総監だったイオニアス・コフィー Aeneas Coffey が、自作の“パテント・スチル”を発表する。この連続式蒸溜機はスタインのスチルの欠陥を調整したもので、ウイスキーの生産量を飛躍的に増大させた。コフィー・スチルともいうこの蒸溜機で製造されるクセのないウイスキーは、まろやかな味が好まれるイングランドで、ジンに代わる魅力的な酒として売上げを伸ばした。

 当時、スコッチ・ウイスキーの定義を定めた法律は存在しなかった。モルトウイスキーの蒸溜業者たちは「スコッチ・ウイスキーの呼称を、どこでも、どんな穀物からでも製造できる無個性な蒸溜酒、グレーンウイスキーなどに与えるべきではない。自分たちの製品、モルトウイスキーのみに適用されるべきだ」と主張した。

 この定義論争は長期戦となった。2件のテストケース(試訴)や高等法院と王室委員会での論議などを経て、実に1908年、政府はついにグレーンウイスキーも“スコッチ”と称することを認める決定を下した。現在のウイスキーの法的定義は“麦芽中のジアスターゼによって糖化された穀粒を粉砕したものから蒸溜した酒”となっている。

 定義論争が始まった当初の1853年は、シングルモルト・ウイスキーの売上げが記録的な不振に終わったが、エディンバラでウイスキー商を営むアンドリュー・アッシャー Andrew Usher が、熟成期間の異なるさまざまなモルトウイスキーを混ぜ合わせたウイスキーの製造に成功する。アッシャーの友人であったジョージは実験を間近に見て、この発見の重大さを見抜き、アントルプルヌールとして、時を移さずこれを利用した。

 ブレンディングの考え方は、決して新しいものではなかった。ウイスキー市場の底辺にいたウイスキー商や旅籠屋の主人たちは、利益をひねりだすために、安酒を密かに混ぜ合わせた。しかしアッシャーが目指したのは、各種のウイスキーを組み合わせることによって、どの原料ウイスキーよりも優れた味わいをつくりだすことであることをジョージは知っていた。

 アッシャーがつくりだした<オールド・ヴァッテド・グレンリベット Old Vatted Glenlivet>はその名のとおり、グレンリベット産の各種ウイスキーを混合もしくはヴァッティングしたものだ。友人の苦心談を聞いたジョージ・バランタインに閃くものがあった。グレーンウイスキーとモルトウイスキーのブレンドである。数々の実験を重ね、ブレンディングの技術を芸術の域へと高めていく苦闘の日々が始まった。

 「一方で、混ぜ物をして安い“モルトウイスキー”をつくる試みがあった」と、バランタイン社の蒸溜所連絡部長で、ウイスキー商ティーチャー Teacher 家の直系の子孫であるビル・バーギス Bill Bergius は言う。

 「当時、スコッチ・ウイスキーを定義する法律はなかったから、一部のいい加減なウイスキー商はスペイン産のクセのない蒸溜酒でウイスキーを薄めて儲けていた。そんな悪質な試みが行われる一方で、ブレンディングを高度な技術とみなす、バランタインのような有名ウイスキー商が出てきたんだ。彼らはより軽く、より洗練されたもの、すなわち高級ウイスキーをつくろうと努力していた」

初期のブレンド

 このときつくられたウイスキーはどんな味だったのだろうか。実は、エディンバラの富裕層のあいだで人気を博した初期の実験的ブレンドは、<バランタイン17年>のような最高級ウイスキーとは似ても似つかない味だった。当時の調合には数種類のウイスキーしか使っておらず、できあがった製品は現代人が味わっているような重層的なフレーバーには欠けていた。

 「初期の標準的ブレンドは、おそらく 6カ所程度の蒸溜所のウイスキーを使用していたようだ」と、グラスゴー大学のマイケル・モス Michael Moss とストラスクライド大学のジョン・ホルム John Hulme の2人の歴史家は、詳細を極めたその研究書『スコッチ・ウイスキーの製造 The Making of Scotch Whisky』の中で述べている。

 「ブレンドに良質のフレーバーを加えるために、アイラ島やキャンベルタウンといった産地でつくられる高価で貴重なウイスキーを、ごく少量加えるようになった。そうしてつくられたウイスキーは、伝統的なシングルモルトより軽く、ひどい二日酔いを起こすことが少なかった」

 ブレンディングの技術は進歩を遂げ、ウイスキー商たちはさまざまな蒸溜所でつくられたモルトウイスキーとグレーンウイスキーをブレンドするようになり、安定した品質を得るための調合法を磨き上げていった。

 「当初、きわめて洗練された組み合わせを見つけるのに四苦八苦したはずだ」とビル・バーギスは付け加える。

 「そのブレンドを気に入った客は、また同じものを注文する。スコッチのボトルをなじみのウイスキー商のところに持ち込んで、ブレンドを依頼する客もいた。そうして、特定の調合法や名のある銘柄が確立されていったんだ」

 バランタインのような高級ウイスキー専門店は、知識と経験をどんどん深めていった。苦心の末に調合法を改善し、一歩一歩、新しい香りの地平を拓いていった。こうした品質と細部への配慮という基礎があったため、バランタインの評判はますます高まっていく。

 ジョージは自分の知識を長男であるアーチボルドに教え込み、ついにエディンバラでの商売を彼に任せた。ブレンデッド・ウイスキーの可能性に興奮を覚えたジョージは、1869年にはイザベラや下の子供たちとともにグラスゴーに移り、ウイスキーの新しい技術、ブレンディングという芸術の練磨に一層打ち込むことにしたのである。

 1858年に起きた大規模な災害によって、思いがけずウイスキーの売上げは伸び始めていた。フランスのブドウが凶作に見舞われ、その後何年もフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)の大被害を受け、ブランデー用ワインの在庫が底をついてしまったからである。高級蒸溜酒に飢えたイングランドの上流階級の人々が、何百人と大挙してブレンデッド・スコッチに殺到した。

 そこで、ジョージはグラスゴーのユニオン通り100番地の瀟洒な建物でウイスキーの卸売りを軌道に乗せることに専念し、専門知識を傾けて独自のブレンドの完成を目指した。これがのちに<バランタイン17年>の礎となるのである。

 こうして調合法が確立されたブレンデッド・ウイスキーは独自の市場を形成し、ブレンダーの名前がラベルに明示されるようになる。ジョージ・バランタインをも含めた多くのウイスキー商は、代理店やロンドンの酒類商を通さずに、イングランドの雑誌に広告を載せて、ブレンデッド・ウイスキーの直接販売を行った。

恵まれた一生

 19世紀末になると、ジョージ・バランタインは優れたウイスキー・ブレンダーとしての名声を高め、その取引先もイングランドから国外へと広がっていった。彼はモルトウイスキーに関する知識を深め、品質とフレーバーの向上をもたらす熟成技術を駆使することにより、まろやかな舌ざわりで知られる、きわめて評価の高い一連のウイスキーを生み出すことに成功する。

 バランタイン社は独自のモルト銘柄を販売していた。すなわち、ヘヴィーでピート香が強いスカイ島産モルト<タリスカー>、まろやかな味わいで知られるハイランド産モルトの<オールド・グレンリベット>、そして高級ブレンデッド・ウイスキーの<バランタインズ・ファイン・オールド・ハイランド・ウイスキー Ballantine's Fine Old Highland Whisky>である。いずれも、ラベルには“バランタイン”の名がはっきり表示されていた。

 ジョージのような有名ブレンダーが、飽くことのない努力を続けた結果、ウイスキーに関する知識はさらに深まった。たとえば、熟成の効果が認識され、またシェリーの古樽で熟成すると心地よい味わいが得られることなどもわかった。ジョージ・バランタインは、持ち前の革新性と想像力を駆使して、ブレンデッド・スコッチを世界を代表する名酒に育て上げていったのである。妻イザベラが亡くなった1881年にはすでに、バランタイン社の店舗や倉庫から世界中の市場に向けて、バランタインのブレンデッド・ウイスキーが輸出されるようになっていた。

 その後、ジョージは再婚し、有能な息子たちに商売を託して引退した。息子たちはエディンバラとグラスゴーの事業を統合し、ブレンデッド・スコッチの輸出を促進するために保税倉庫を買い取った。

 バランタイン社は、1891年版『ストラテン・ガイド Stratten's guide』のグラスゴー近郊編で、最高級のオールド・ハイランド・ウイスキーのブレンド業者として高い評価を得ており、選りすぐった各地のモルトウイスキーをシェリーの古樽で熟成し、ブレンドしていることが紹介されている。バランタイン社の保税倉庫に置かれた商品は、5〜10万本に達することも珍しくなかった。そして、バランタイン社が最大の眼目としてきたのは、そのウイスキーの豊かで驚くべき風味は当然のこととして、その品質の高さをどのボトルでも均一に守ることだった。

 エディンバラに隠退したジョージは1891年、安らかに82年の生涯を閉じた。エディンバラ最大の新聞に載った死亡記事は彼の計り知れない功績を称揚し、「現代の商業がどんなに発展しても決して色褪せることのない名声を、バランタイン家の人々に残した」と記している。

 4年後の1895年、アーチボルドはついに、エディンバラきっての目抜き通り、プリンシズ・ストリートに店を開き、父の長年の夢を実現した。この店は上流社会の洗練された人々の愛顧を受け、1938年に小売業をやめるまで繁栄を続けた。バランタインの名は、国の内外に響き渡ったのである。

 奇しくも同じその年、グラスゴーでは、バランタイン社の事業を切り盛りしていたジョージ2世が、やはり父親の夢だった快挙を成し遂げた。休日にはスコットランドの山に登り、そのあとの一杯のウイスキーを好んだことで知られるヴィクトリア Victoria 女王がグラスゴーを訪れて、バランタイン社に王室御用達の称号を授与したのである。これは、バランタイン社が上流社会で大いなる名声を獲得していたことの証左である。そして、大英帝国の元首である女王自身に認められたことは、その後のバランタイン社の国際的展開の大きな弾みとなっていった。


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