誕生エピソードが諸説あり過ぎ、というか面白いほど言いたい放題のカクテルが「マルガリータ」である。正直に言うと取り上げるのが面倒くさい。前回154回『元祖マルガリータ/ピカドール』で誰が創作したかは、どうでもいいんじゃないか、と述べた。
するとやはり諸説を知りたい、との反響が少なからずあった。そのため今回は「マルガリータ」に関しての誕生説をいくつかお伝えしよう。
とはいっても前回で述べたように、「マルガリータ」のレシピはデイジーという19世紀半ば過ぎには存在していたカクテルの派生であり、20世紀初頭には「テキーラ・デイジー」「テキーラ・サワー」という名ですでに飲まれていたことをご承知おきいただきたい。
レシピが存在していたカクテルを誰が「マルガリータ」と命名したのか。結論を先に言う。主張を裏付ける信憑性の高い証拠はない。
では誕生説を時系列で追っていく。文献によって多少細部やニュアンスが異なっているので、わたしなりの解釈で述べていきたい。また、ここに取り上げる以外にも説があることをご承知おきいただきたい。
まず1930年、メキシコ・タスコのBertah’s Barのオーナー、ドニャ・ベルタによって考案された、と民間伝承者サラ・モラレスが主張。
1936年、メキシコ・ブエブラ州テワカンのHotel Garci Crespoのマネージャー、ダニー・ネグレテが結婚祝い、義理の妹となるマルガリータのためにつくった。1944年にダニーはティファナに移り、1930年代はじめに「マルガリータ」が生まれた場所とされているアグア・カリエンテ競馬場のバーテンダーとなる。この辺りの辻褄が合わないところが笑える。
同年、ティファナのバーでブランデーもしくはジンのデイジーをつくろうとして間違えてテキーラを使い、それを「マルガリータ」と命名。
1937年、アメリカ・ロサンゼルスのYoung’s Market Companyというテキーラ販売代理店の営業マン、ヴァーノン・O・アンダーウッド(1963年社長就任)は、テイル・オ・コック(Tail O’ Cock)というレストランが一度に5ケースものテキーラをオーダーしてくることに驚いて店を訪ねる。するとヘッド・バーテンダー、ジャン・デュレッサー(Johny Durlesser /ジョニー・ダーレッサー/前者を記述している日本の文献に準ずる)がつくるテキーラ・カクテルの人気を知り、彼はジャンに新しいカクテルの創作を依頼した。
出来上がった当初のカクテルに名前はなかったが、後にアンダーウッドはレストランのオーナーとともに「マルガリータ」と名付けた。
この話は1955年1月にカルフォルニアのVan Nuys News(ヴァン・ナイズ・ニュース)の記事でアンダーウッドが語ったものとして掲載されている。ただし、レストランの開業は1939年であり、2年のズレがある。
アンダーウッドの会社は1955年頃からカクテル「マルガリータ」の全国的な広告キャンペーンをおこない人気を高めた功績がある。そしてジャンは彼とともにテキーラを広めた。
まだまだつづく。次は1942年夏、メキシコ・チワワ州シウダー・ファレスのトミーズ・プレイスのバーテンダー、フランシスコ・モラレスは、女性客が「マグノリアをください」と言ったのだが、そのレシピがわからなかったためにテキーラでカクテルをつくり、「マルガリータ」と名付けた。
1947年(1948?)、メキシコ・ロサリトビーチのランチョ・ラ・グローリア・バーで、カルロス・ダニエルがテキーラ以外の酒を嗜まない女優マージョリー・キングのためにつくり、「マルガリータ」と命名した。
1948年、テキサス州ガルベストンにある伝説的クラブ、バリニーズ・ルームのヘッドバーテンダー、サントス・クルスが歌手ペギー リーのためにカクテルをつくった。それを彼女の夫でギタリストのデイブ・バーバーが「マルガリータ」と命名した。
さらに同年、アメリカ・ダラス出身の社交界の名士であったマーガレット(マルガリータ)・セイムズがアカプルコの自宅パーティーで「マルガリータ」を考案したと主張。ゲストには影響力のある人々が名を連ね、彼らがこのカクテルを広めたとされるが、先述のテイル・オ・コックのオーナー、シェルトン・ヘンリーが友人だったことを付け加えておく。
以上が主な主張である。とはいえ「マルガリータ」の文献初出は1953年9月17日付『The Press Democrat』(カリフォルニア州の新聞)である。つづいてその年の雑誌『エスクアイア』12月号でも取り上げられているが、登場までかなりの時間がかかっているのは何故か。
最後に第23回『べサメ・ムーチョ/テキーラ・サウザ・シルバー』でも登場するジャン・デュレッサーという人物について触れてみたい。
以下は、かつて多くのバーテンダーを輩出したサントリースクールの校長であった故福西英三氏からお聞きした話とわたしの手元の資料をミックスした内容である。尚、福西氏の著書『洋酒うんちく百科』(河出書房新社刊)に詳細な記述がある。さらにジャンは引退後の1980年代はじめに日本を訪れており、そのときに福西氏は彼にお会いになっている。
さて、ジャンは英国バーテンダー・ギルド(UKBG)のアメリカ西海岸でのアンバサダーだった。1937 年、材料にテキーラが記載された初期の書籍『Café Royal Cocktail Book』がロンドンで出版された。このカクテルブックはジョージ6世の戴冠を記念しており、UKBGの病気手当基金とカフェロイヤルスポーツクラブ基金の資金調達のためでもあった。
そこに掲載された「ピカドール」のレシピは「マルガリータ」とまったく同じで、これをジャンがアメリカで上手く利用したのかもしれない、と勘ぐりたくもある。
そして1970年、ジャンはUKBGの機関誌のインタビューで初恋の女性のことを語る(第23回参照)。これがカクテル秘話としてIBA(国際バーテンダー協会)加盟国のバーテンダーに知れわたるのだが、盟友ともいえるアンダーウッドの話とはかなり異なっているのは何故か。
アメリカのバーテンダー協会は西海岸が中心であり、組織としては強固ではない。いまでも禁酒法がさまざまに影を落としており全国規模の組織に発展できないのだ。しかもジャンがテキーラを扱いはじめた頃のアメリカのバーテンダー組織は禁酒法撤廃から間がなく脆弱であっただろう。
出来すぎた秘話ではあるが、アメリカ側は当時の詳細を把握できていないはずだ。しかもUKBGと関係のあったジャンの存在は面白くはない。
わたしがジャンについて語るのは福西先生にさまざまにご指導いただい恩義からであるが、真実は不明であるとしか言いようがない。