またまた歴史的なカクテルを紹介しよう。アメリカで19世紀初頭に誕生したコブラー(Cobbler)である。アメリカでは忘れ去られたカクテルのように語られているものの近年見直されているとも聞く。一方、日本では見向きもされていないようだ。
とても美味しいカクテルであるのに、実のところコブラーに関して日本には正しく伝わっていなかった、といえるだろう。
コブラーを定義づけると、ワインやスピリッツをベースに少量のリキュールや砂糖を加えてシェーク(ステアの処方もあり)し、クラッシュドアイスを詰めたゴブレット、またはワイングラスに注ぐ。さらにはミントの葉や季節のフルーツを飾り、ストローを添えたカクテルということになる。何よりも、クラッシュドアイスとストローは不可欠である。
当初はステア。これがシェークに変化した。1862年のジェリー・トーマスのカクテルブックには“よく振る”とシェークでの処方が書かれている。
アメリカの文献を見ると、メインとしてよく語られているのはシェリー・コブラー、またブランデー・コブラー、ウイスキー・コブラー、ラム・コブラーなどがある。
そもそもコブラーとはcobbleが基になっており、cobblestoneは小さく砕いた道路の敷石や丸石のことで、cobblestone laneは石畳の小道を言う。さらにcobbled iceとなると小さく砕いた氷、つまりクラッシュドアイスにつながっている。
コブラーは1820年代もしくは1830年代に誕生したとされる。それまでアメリカ東部、とくにニューヨークやフィラデルフィアといった都市の酒場では「ミント・スリング」、つまり南部のドリンクであった「ミントジュレップ」がよく飲まれていた。
この「ミントジュレップ」だが、フランスやスペイン植民地だったアメリカ南部ではさまざまなベースで飲まれていた。ワインもあればブランデーをはじめラム、ウイスキーなどをベースにして幅広く愛されていた。それが東部の大都市に伝わっていったのである。このアレンジがコブラーとなったようだ。
不可欠とされるクラッシュドアイスは、天然氷のボストン氷だった。
1805年、マサチューセッツ州ボストンのフレデリック・チューダーが天然氷の採氷、蔵氷、販売事業を起こし、翌年冬にはボストン氷として輸出を開始している。ボストンの人々は無謀な事業として捉え、“ツルツルと滑ってしまう投機”と嘲笑ったらしい。
それでもチューダーは邁進した。カリブのマルティニーク島を皮切りにキューバやジャマイカ、インド、アルゼンチン、そしてイギリスにまでボストン氷を輸出した。日本にも江戸の幕末に輸入されている。
アメリカ国内においてチューダーは、市場開拓のために影響力のあるいくつかの酒場に1年間無料で氷を提供した。条件はただひとつ、常温ドリンクとの値段に差をつけないことだった。
こうしてチューダーは飲料の世界に革命を起こしたのだった。その象徴的なカクテルがコブラーである。そしてボストン氷は食品保存やアイスクリーム製造、さらには医療においても多大な貢献をした。
もうひとつのストローはクラッシュドアイスを詰めたグラスからドリンクを飲むために便利だった。古来は葦(あし)の茎、それからライ麦などの茎が使われるようになった。つまり麦藁(むぎわら/straw)からきているのだ。