8/29(土)
15:00開演(14:20開場)大ホール
候補作品演奏の後、公開選考会
(司会:長木誠司)
候補作品応援企画 非公式開催!
昨年よりスタートした、聴衆による投票「SFA(S=サマー、F=フェスティバル、A=芥川)総選挙」を、今年も行います。
この選考演奏会を会場で聴いて、気に入った曲に投票してください。観客による総選挙の結果は、作曲賞決定後に発表します。
サントリーホール・メンバーズ・クラブ先行発売: | 5月11日(月)10:00〜5月14日(木) |
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一般発売: | 5月15日(金)10:00〜 |
※学生券はサントリーホールチケットセンター(Web・電話・窓口)のみ取り扱い。25歳以下、来場時に学生証要提示、お一人様1枚限り。
写真をクリックタップすると、プロフィールがご覧いただけます。
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坂田直樹:『手懐けられない光』オーケストラのための(2020)
芥川作曲賞受賞作である前回のオーケストラ作品『組み合わされた風景』では属性の異なる様々な音響の対比やグラデーションによる作曲を追求しました。今回の新作では、当時の興味を引き継ぎつつ異なるアプローチを試みています。重く濁った響きの「うなり」からエネルギーを取り出したり、潮騒のような音の震えをオーケストラ全体で増幅していくなど、様々なプロセスの描写を通じて、より深化した表現を目指しました。
有吉佑仁郎:『メリーゴーラウンド/オーケストラルサーキット』オーケストラのための
本作は特殊な舞台配置を前提に作曲されたオーケストラ作品である。指揮者を中心に置き、周縁部の奏者群が形成する二重の円陣構造は、歴史的なオーケストラのネットワークを解体・再構築し、特異な空間的音響特性を実現する。曲中において、ノイズを多分に含む断片的音群とその総体としてのテクスチュアが流動的に推移し、不規則に挿入されるエピソードは、コンテクストの歪曲と分断を誘発する。
なおタイトル(Merry Go Round:回転木馬、Circuit:回路)は、上述の特殊配置及び作曲コンセプトを投影したもので、狂熱の渦中で錯乱の火花を飛散させつつ自律的旋回を続ける、音響的メリーゴーラウンドを象徴している。
小野田健太:『シンガブル・ラブ II - feat. マジシカーダ』オーケストラのための
夏の曲を書きたい、とずっと思っていました。夏といっても現実に体験するものではなく、メディアの中で美しい瞬間だけが切り取られ、そして永遠に再生されるような夏であり、そのようにステレオタイプに作り上げられた「夏っぽい一瞬」に私はどうしようもなく惹かれてなりません。タイトルにあるMagicicadaとは、北アメリカ東部にのみ棲息するセミの一属であり、日本語 では周期ゼミなどと呼ばれています。この種のセミは、13年あるいは17年ごとに大量発生するという特異な習性を持っており、幼虫の間の長い地下生活を経て羽化したオスは、つがいを求 め、一斉に鳴き声をあげる──ということを世代ごとに繰り返します。私はこの「一定の周期で繰り返し聴こえるもの」として、すぐにポップスの構成とその要素を連想しました。また、彼らの誕生以来受け継がれてきたその求愛行動は、大げさに言えば時を超えたラブソングであり、自分の大好きな90年代のJ-POPが想起されました。そして、セミといえば夏の風物詩(残念ながら周期ゼミが羽化するのは春季なのですが) 。こういった空想 (妄想?) から、「もしも周期ゼミが90年代の日本で夏のラブソングをリリースしていたら…?」というイメージを思い描きました。作曲にあたっては、周期ゼミの鳴き声に含まれる特徴を取り入れながら、「ダサい」素材 (いかにもな長和音やビート、ありふれたコード進行、ありがちなトゥッティ、月並みなエンディング)を用い、自分の思う「90年代的ダサさ」を作品に潜めています。
セミの鳴き声を「声」と認識するのはポリネシア人と日本人だけだといいます。サブカル大国(?)日本に生まれ、夏にはセミの「声」を聴きながら育った自分のルーツを頭の片隅に思い 浮かべながら作曲を進めました。
冷水乃栄流:『ノット ファウンド』オーケストラのための
年末の風物詩といえば、「第九」。中でも「歓喜の歌」はテレビ番組やCMなど様々な場面で取り上げられている。 「第九」を聴くとき、(意識的であれ、無意識的であれ)私たちの耳には「歓喜の歌」の影がつきまとう。本作品では、そんな「第九」に「合唱不在」の状況を設定した。ズバリ、人間不在の滅んだ世界の「第九」。このイメージが私の頭の中を支配したのだ。──文明が退廃した世界で、過去の人類の活動の痕跡が風化し、自然に侵食され遺物となっていく…。──なんて書くと一体どんな鬱々とした曲なのかと肩が強張り疲弊しそうなものだが、その崩壊は明るく軽やかなものである。なればこそ毒々しさが増すというものだ。そしてその「第九」の残骸を媒介して草木は芽吹き、花は咲き乱れる…肩の力を抜き、きらめく崩壊に身を委ねていただけると幸いだ。
有吉佑仁郎
小野田健太
冷水乃栄流
私にとってクラシック音楽は「ポストアポカリプスにおける遺構のようなものではないか」、
そのようなイメージに取り憑かれ作曲の土壌は耕されていきました。
また、そのイメージはL.V.BeethovenのSymphony No.9 と分かち難く結びつき、
朽ちる「第九」をメディアとして新たな命が多層的に芽吹く…という世界を見ました。
-「合唱不在」の第九、人間不在の世界、
散乱した痕跡には蔦が絡まり、花が咲き、そこは動物たちの住処となってゆく-
この曲はちょうどヒマワリのように、上記の世界に対する指向性を持って成長してゆきました。
朽ちてゆく「第九」によって透かしのように現れる世界の傷、煌く崩壊、芽吹く生命の鼓動、あるいはそれらの重なりや断絶をお楽しみいただけると幸いです。