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【富山県・南砺市】スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド

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神戸ジャズストリート実行委員長 末廣 光夫さん
1929年東京生まれ。1952年、ラジオ神戸(現AM KOBE)の音楽プロデューサーの職につくかたわら「労音コンサート」をはじめ外国アーティストのコンサートのプロデュースや司会として活躍。1982年から「神戸ジャズストリート」実行委員長として海外アーティストの交渉やプログラム・ディレクターを務める。

――1995年1月の阪神・淡路大震災では、ご自身や実行委員の被災状況はいかがでしたか?

幸いなことに、ほとんどのメンバーは姫路や大阪の方に住んでいて全員無事。私の家も神戸の高台にあって被害は少なく、元気でした。ただ、震災から一週間たって初めて三宮に行って、ひどい状況を見ました。ジャズストリートを開催していた北野坂あたりはめちゃくちゃで、これはだめだなと思いました。

――その時、10月のジャズストリートは開催できると思いましたか?

全く思いませんでした。道を進もうと思っても全部崩れて通れない。それがちょうど夕方で、西日が差して「セントルイス・ブルース」の歌詞が口に出てきて、涙が出ました。

――それでも2ヵ月後の3月には開催を決断された。きっかけになったのは何だったのでしょうか?

忘れもしません。3月16日に、東京のヤクルトホールで、神戸ジャズストリートに出演している常連のミュージシャンが集まって、朝から晩まで神戸のために復興コンサートをやってくれたんです。そこで300万円義捐金を集めてくれて、復興のために使ってくださいと。これは嬉しかったですね。神戸で元気なところを見せなくちゃいけないと励まされました。
それから、当時のジャズストリートのスポンサー会社の社長が「たとえ瓦礫の前でもやりなさい。応援しますから」と言ってくれました。あの一言には勇気付けられました。

――その後、開催までの道筋は?

同じ年3月に神戸のオリエンタル劇場で、復興の狼煙を上げました。東京や地元のミュージシャンたちを集めて無料コンサートを開いて、私もレコードを売ったりして、募金活動もやった。650人の劇場が超満員になりました。
それから5月、7月、9月と3回にわたってコンサートをやりました。ライブハウスがみんな営業できない状態で、地元のミュージシャンたちは仕事場がなくなってしまったので、それを救おうと。他の場所でお店の営業を再開すると聞いたら、そこにミュージシャンをよんだりして、義捐金もジャズストリートにではなく、そういった神戸のジャズの復興に使わせていただきました。9月には神戸文化ホールがリニューアルオープンをするというので、大物ミュージシャンをよんで、10月にはジャズストリートをやりますからと大々的に宣言したんです。

――震災から10ヵ月後の10月、見事ジャズストリートを開催されたとき、市民の方々やお客さんの反応はいかがでしたか?

1995年10月14日 神戸新聞(提供:神戸新聞社)「街に“聖者”がやってきた」ジャズストリート復興願い幕開け 神戸

その年初めてパレードをやったんですが、歩いていると路地から人が出てきて、みんな涙を流して拍手で迎えてくれて。あの感激は忘れません。お客さんも毎年楽しみに来ている人たちなので、例年と変わらず日本全国から来てくれました。

――復興のために文化ができることは何だと思われますか?

文化には力があると思います。私はいつも「文化」っていうのは略語だよって言っています。何だと思いますか?「文明開化」ですよ。常に新しいことを発掘して、花開かなくちゃいけない。だからぼくは絶対に過去にしがみつかないです。古いジャズをやっていても、とにかく新しいことをやりたい。

――ひたすら前向きに、復興に取り組まれていたことがわかります。今回の東日本大震災では、各地で文化活動をしている団体も被災しています。そういう方々へ、過去の経験も踏まえてメッセージをいただけますか?

やっぱり自分の力で頑張れっていうしかないですよ。こんな言い方失礼かもしれないけれど、自分の力で立ち上がりなさいと。阪神大震災の後、東京で勇気付けられたように、地方からも勇気付けられた。それにこたえてやってきました。だから僕も言いますよ。頑張れよと。たとえ小さくてもいいんです。何も大きくする必要はない。とにかく自分の力でやりなさいと言いたいです。

(2011年4月取材)

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