旅の記憶が蘇るのはどんな時だろうか。わたしは写真機というものを持ち歩かない。携帯電話の写メを活用することもない。出かけた先々の景色や出会った人々を画像として切り取って残し、見直し、懐かしむということがほとんどない。
では、その旅の思い出はどこに仕舞い込んでいるのか。使い古した愛着のある鞄や靴がわたしのこころに写し込まれた記憶を呼び覚ましてくれるのだ。
旅行鞄を引っぱり出せば、その鞄の傷や染みとともに訪ねた場所や人々が次々と浮かび上がってくる。くたびれた靴も同様。一枚の写真よりもずっと生々しい感覚をわたしにもたらす。
写真機をあまり手にしないのは、仕事柄、写真家と行動することが多かったせいもある。プライベートな旅で素敵なシーンに出会うと、写真家ならここをこう撮るんだろうなとイメージし、それがこころに焼き付いてしまうのだ。
イギリスに『グローブ・トロッター』という1897年創業のトラベルケース・ブランドがある。紙を何層にも重ね、樹脂でコーティングしたヴァルカン・ファイバーという特殊素材でつくられたトランクのボディは画期的なまでにも軽量、堅牢で、当時の最先端素材の象徴であったという。
20世紀初頭、2度にわたって大英帝国の特命により南極へと向かい、学術調査をおこないながら、ノルウェーのアムンゼン隊と南極点到達を競ったキャプテン、ロバート・スコットは、探検調査道具をこのトラベルケースに詰め込んだ。
1912年に処女航海で海底に没したタイタニック号の上級船室には、たくさんの『グローブ・トロッター』が眠っているという。
1953年、初のエベレスト登頂に成功したエドモンド・ヒラリー隊の荷の搬送にもこのトラベルケースが数多く使われた。
何よりも女王陛下のトラベルケースとして名高い。エリザベスⅡ女王の世界を巡るロイヤルツアーにはTHE QUEEN CASEとして『グローブ・トロッター』が伴となる。
最近では2015年公開の映画『007スペクター』で、ジェームズ・ボンドが携えていた。ボンド役のダニエル・クレイグは、このトラベルケースの熱烈な愛用者として知られてもいる。
何故ここまでブランド・エピソードを綴ったかというと、ネーミングの素晴らしさにわたしは感服しているからである。
地球(globe)を巡る人(trotter)。18世紀にはじまる、まさに世界を駆け巡ったイギリスの冒険家たちをたとえ、称えた言葉だからだ。
さらには新素材が次々に開発されているにもかかわらず、21世紀のいまなお職人たちが手間と時間を惜しまず、紙を何層にも重ねながら創業時と変わらぬ軽量、堅牢な製品をつくりつづけている姿がある。
歴史と伝統を誇る名酒づくりのスピリットと同じであり、時代が移り変わっても愛されつづけている名品の証でもある。イギリスでいえばスコッチウイスキーやジンがある。ロンドンドライジン「ビーフィーター」のボタニカルのこだわりに通じる。