ジンの歴史を語る上で必ず登場する人物がオレンジ公ウィリアム3世(1650-1702)である。イングランドの名誉革命(1688)で議会が国王ジェームズ2世を退位させ、その娘メアリー2世の夫であったオランダ総督ウィリアム3世を翌年にイングランド国王に迎えた。
これによってオランダのジン(ジュネヴァ)がイングランドに大量に持ち込まれ、大ブームを巻き起こすことになる。
ところで、そのオレンジ公ウィリアム3世のオレンジって、なんだろう。オランダは果実のオレンジの産地ではない。それなのにスポーツの世界でみると、オランダ代表の選手たちのユニフォームはオレンジ色を基調としている。でも、国旗は上から赤、白、青の三色旗でオレンジ色は入っていない。なんとも不可解である。
オレンジ公ウィリアムは英語読み表記で、オランダ語での日本語読み表記はオラニエ公ウィレムとなる。オラニエ(Oranje)の名は現国王にも受け継がれている。
この国王一族についてはウィリアム1世(1533-1584)から語らなければならない。彼はネーデルランド諸州(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス北部、ドイツの一部を含む地域)が、当時の宗主国であったスペイン・ハプスブルク家へ反乱を起こした八十年戦争(1568-1648/オランダ独立戦争)の中心的人物で、ユトレヒト同盟(1579)を結成した。
もともとの家系はドイツ中西部に位置するナッソウの貴族であり、ウィリアム1世は従兄の死とともに縁戚関係による相続によって1544年にネーデルランドにも所領を得、さらには南フランスのオランジュ(Orange)公国をも相続した。ここからウィリアムの家系はオラニエ=ナッソウ家と呼ばれる。そしてウィリアム1世は独立したオランダ(ネーデルランド)の初代君主とされている。
ちなみに3世の父であるウィリアム2世は1世の孫にあたり、八十年戦争を終結させた。
フランスのオランジュはいまでも市として存在する。プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏内のヴォクリューズ県に位置する。南へ21キロ行けばアヴィニョンがある。現在、ローマ時代の遺跡が世界遺産に登録されており、毎年8月にローマ劇場で開催されるオペラのオランジュ音楽祭も名高い。
このオランジュ市、古代にはアラウシオ(Arausio)というケルト人の居住地であった。このアラウシオが転訛してオランジュとなったといわれている。また十字軍の遠征によって地中海沿岸にオレンジ栽培が広まり、後にここがオレンジ取引の一大集積地になったという話もある。
ただし、1673年にルイ14世によってオランジュの城は攻撃され、1702年にはフランス王国に併合されている。
早い話、オランダのオレンジの起源は、建国の父であるウィリアム1世がオランジュ公(オラニエ公)となったことにある。そのまま名が今日まで引き継がれ、オレンジ色も愛されているという訳だ。国旗に関しては、実はオレンジ、白、青だった。ところが航海において海上でオレンジ色が退色しやすく、認識しづらくなるため、赤に変わっていったらしい。現在の国旗の色が正式に定められたのは1937年である。
しかしながらオランダがオレンジ果実とまったく無関係かといえば、そうでもない。キュラソーというオレンジリキュールがある。17世紀後半に南米ベネズエラの沖合60キロほどのところに位置するオランダ領キュラソー島産のオレンジをオランダ本国に送り、果皮をスピリッツやブランデーに浸漬し、砂糖を加えて誕生した経緯がある。