ベートーベンの『交響曲第5番 ハ短調 作品67』は『運命』という別称で知られている。と、堅苦しく述べるほどのこともない。ジャジャジャジャーンとかダダダダーンの、あの『運命』のことだ。
そのダダダダーンはさまざまな楽器による音色の変化や緩急の変化をつけながら頻繁に登場するのだが、わたしが『第5番』で最も好きなのは第4楽章である。第3楽章までダダダダーンと繋いで、第4楽章でいきなりド、ミ、ソとくるのだ。あっけらかんと、開き直ったようにシンプルな分散和音ではじまる。なんとも凄いではないか。
わたしは作曲家ではないし、音楽評論家でもないが、物書きの端くれ、一応創造者の立場として言わせていただくと、まったくの素(す)でいきなりはじめるなんてことは、とても勇気がいる。聴覚を失いながらも不朽の名曲を生み出しつづけた彼は、たしかに楽聖である。
酒の世界に、わたしが勝手に『第5番第4楽章』と名付けている小さなボトルのスピリッツがある。わずか20mlの「ウンダーベルク」(アルコール度数44%)。これがベートーベンと同じドイツ生まれの酒、そしてド、ミ、ソの酒なのだ。
夜の最後の締めに、包み紙をダダダダーンと剥き、キャップをダダダダーンと捻り、ボトルを口にダダダダーンと傾ける。すると、口中から胃の腑に流れ込んだ瞬間にド、ミ、ソが響いてくる。
40分におよぶベートーベンの『交響曲第5番』は運命の暗から明を描いたもの。第1楽章は抗うことのできない運命の扉がダダダダーンと叩かれる。第2楽章は運命の荒波にあった苦悩。第3楽章は安息のレクイエム。そして第4楽章が運命に打ち勝った喜び、賛美で終わるが、「ウンダーベルク」はまさにその第4楽章であり、カタルシス、浄化の酒といえる。
朝、煩雑な一日がはじまる。諸事に翻弄されながら、午後の苦悩へとつづき、夜には安息、レクイエムの酒を飲む。そして最後にド、ミ、ソと「ウンダーベルク」で安らかな眠りにつき、清々しい目覚めの朝を迎えられる。
ラインバーグという、近くをライン川が流れる美しい田舎町にウンダーベルク社はある。ドイツの西の中心都市デュッセルドルフからアウトバーンで北へ約1時間の距離で、ちょっと行けば、オランダである。その地で、1846年にフーベルト・ウンダーベルクが生産を開始した。
世界43カ国からハーブやスパイスを集め、それぞれの素材にあった方法で仕込んでスピリッツに数週間漬け込み、濾過し、それらをブレンドした後にスロベニアンオークの樽で約9ヵ月間熟成させて「ウンダーベルク」はできあがる。スロベニアンオークはタンニンの溶出が穏やかで強い主張がなく、マイルドな仕上がりを生む。
とはいえ、はじめて飲む人は強烈な味わいに感じるだろう。酒なのか、胃薬なのか、生薬的な感覚が口中に広がる。
地元ドイツでは酒場はもちろん、スーパーのレジ横にずらっと陳列されていたり、駅の売店にも置いてあったりする、国民的ドリンクである。
食後にクイッと、飲酒の最後にクイッと、小瓶を傾ける。健胃薬的感覚で飲まれているようだ。ドイツの家庭では、子供が風邪を引いたときに「ウンダーベルク」をホットミルクで割って飲ませるらしい。
飲み方は、やはり飲食後にストレートがふさわしい。ちょっと飲みやすくしたいならばソーダで割ればいい。どちらにしても、清々しい気分になる。
もっとガツンといきたい、という方には「スティール&アイアン」(もしくはアイアン&スティール)をすすめよう。ドイツ語ではシュタール・ウント・アイゼン(Stahl und Eisen)となる。鉄と鋼である。なんだかワイルドだろ。
本来は小麦からつくられるコルン(Korn)という蒸溜酒に「ウンダーベルク」の組み合わせのカクテルだが、日本でコルンを置いているバーはそんなにはない。コルンは以前、ジュニパーベリーの香りづけの強いジンタイプのスピリッツであったから、ここは「ビーフィータージン」にご登場いただく。
わたしの好みは「ビーフィータージン」「ウンダーベルク」ともよく冷やしてあるほうが望ましい。いろんなやり方があるが、ステアはしない。20mlのジンの上に、20mlの「ウンダーベルク」を静かに注ぎ、自然に混ざり合わせる。
これは、最初に飲んでもいい。次に飲む酒が随分とおいしく飲めるから不思議だ。もちろん最後の締めのカクテルとしても最高である。鉄と鋼という最強コンビで手強そうに感じられるかもしれない。ところがタフなようで、とても人に優しい。爽やかな心地なのだ。
ベートーベン『交響曲第5番第4楽章』のように、カタルシス、すべてを解きほぐしてくれるチカラを秘めたカクテルといえよう。聴覚を失ったベートーベンは晩年、曲のテンポを視覚的に把握できるメトロノームを愛用し、多くの音楽家たちがその有用性に気づくことになるのだが、「ウンダーベルク」は酒のメトロノームかもしれない。飲み手を心地よいテンポに導いてくれる。