南北戦争後の1860年代後半からソーダ・ファウンテン(ソーダ水をつくる専用機器/ディスペンサー)はドラッグストアをメインに急激に普及していったことを前回述べた。同時代のアメリカでもうひとつ、新たな事業として発展しつつあったのがアイスクリームである。
では今回は甘く清涼感のある「ノブクリークライ」のジンジャーエール割を友としながら話をすすめよう。クラフトらしい独特のコクがクセになる。しかもフィニッシュにライウイスキーらしいスパイシーさがほのかに香る。これがなかなか心地よくて、すぐに誘われてしまい、ついついグラスを傾けてしまう。
1843年、ペンシルベニア州フィラデルフィアの主婦、ナンシー・ジョンソンがアイスクリームの撹拌時間を大幅に短縮できる画期的な製造用機械(ただしハンドル手回し式)を開発して特許を取得すると、これがアイスクリーム大量生産時代の幕開けとなった。
1851年に牛乳商、ヤコブ・フッセルが夏季に余剰となる生クリームを活用してアイスクリームを製造することを思い立ち、ペンシルベニア州に最初の工場を建設した。
ライウイスキー発祥の地といわれているペンシルベニア州はアイスクリームの地でもあったのだ。前回紹介した果汁シロップ入り炭酸飲料をアメリカで初めて販売したタウンゼント・スピークマンもフィラデルフィア。ライウイスキー、ソーダ水、アイスクリームと、当時この州はかなり先端を走っていた。
フッセルはその後拠点を隣のメリーランド州ボルチモアに移すと、東海岸沿いの各地に次々に工場を建設してアイスクリーム生産をビジネス化する。ここから本格的な大量生産時代に突入し、南北戦後にはいくつものメーカーが出現するようになった。
1870年代にはドラッグストア経営者たちはこのアイスクリームにも注目するようになり、ソーダ水とアイスクリームを合体させたヒット商品が次々に開発されていく。ソーダ水の人気、アイスクリームとのコラボにより、経営者たちはドラッグストアの一角を区切り、その空間自体をソーダ・ファウンテンと呼ぶようになる。