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ライウイスキー・カントリー

1600年代後半、現在のペンシルベニア州南部からメリーランド州の州境あたりでアメリカのウイスキーづくりがはじまった。まずドイツ語圏からの移民たちがライウイスキーをつくった、との説があることを前回お話した。

移住地がライ麦栽培に適応するとわかると、彼らはすぐにライ麦を原料にしたシュナプス(蒸溜酒)をつくろうとしたのである。やがてアイルランドやスコットランドからの移民たちもライ麦を原料に蒸溜をはじめた。

とくにペンシルベニアでは蒸溜が盛んにおこなわれ、18世紀後半には5,000もの蒸溜所があったらしい。アパラチア山脈の一部、アルゲニー山脈西麓のアルゲニー台地を源に発するモノンガヒラ川流域に最も多く集まっていた。

モノンガヒラ川はピッツバーグでアルゲニー川と合流してオハイオ川となり、ケンタッキー州の北を流れてやがてミシシッピ川へつながる。

この地域でつくられるライウイスキーは“モノンガヒラ・タイプ”と呼ばれ、やがて“ペンシルベニア・スタイル”という通称になったようだ。ペンシルベニア州の1800年代はじめのウイスキー生産量はケンタッキー州の3倍に達していたという。

一方、メリーランド州はボルチモア・ライウイスキーで知られていた。こちらは“メリーランド・スタイル”と呼ばれていた。

“ペンシルベニア・スタイル”はスパイシーさで定評があり、“メリーランド・スタイル”はそれに比べてスパイシーさは穏やかだったといわれている。

またメリーランド州の南、アパラチア山脈の西側がケンタッキー州に分離することになるバージニア州も1700年代からライウイスキーづくりが盛んであった。

バージニア州のウイスキー史で興味深いのは、初代大統領ジョージ・ワシントン(1732−1799)がライウイスキー製造の大事業者であったことだ。ワシントンは独立戦争(1775−1782)による莫大な戦費によって逼迫した国家財政を立て直すために、1791年に蒸溜酒に対する物品税を導入した大統領である。そしてこの課税によって大事件を呼び起こしてもいる。

課税に対して小規模事業者(ウイスキー・ボーイ/ほとんどは農民)たちは不満を募らせた。たちまちにしてペンシルベニア州から南はジョージア州まで、アパラチア山脈の山岳地帯のウイスキー・ボーイたちと政府の収税官たちの間が険悪な状況となる。

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