現金が乏しいウイスキー・ボーイたちは、自分たちがつくったウイスキーで物々交換をしていたのだ。黄金にも匹敵する大切な液体だった。多くが余剰穀物を原料に、小さくて粗末な蒸溜器で細々とウイスキーをつくっていた。そんな彼らが税金など支払えるはずもない。やがて武装蜂起へとつながり、1794年にはモノンガヒラでの暴動鎮圧のためにワシントンは軍隊を送り込むことになる。
これが名高い『ウイスキー税反乱』事件(ウイスキー反乱、ウイスキーの乱、ウイスキー戦争など文献によって日本での表記はさまざま)の経緯である。
ウイスキー・ボーイの多くはこの反乱後に、東部13州に比べればまだ官憲の目がゆるかったケンタッキーへと移り住み、農業と蒸溜に従事したのだった。ただし見通しは甘く、当然、ケンタッキーにも厳しい目が届くことにはなる。
とはいえ皮肉にも、ケンタッキーのバーボンウイスキーの発展は、ワシントンの蒸溜酒への課税が大きな貢献となっている。
1797年に大統領を辞したワシントンはバージニア州マウントバーノンの広大な自宅農場で暮らしはじめる。そこでさまざまな酒類を生産したといわれている。発掘調査から5基の蒸溜器が設置されており、ライウイスキーを製造していたことがわかっているらしい。農民への罪滅ぼしだったのか、自らが大規模事業者として酒税を収めたのだ。2年後の1799年に67歳で逝去した。
この連載で以前にも触れたが、19世紀末からライウイスキー人気に翳りがでてくる。まずライ麦収穫量が減少傾向となり、ウイスキーの原料にまわすだけの余裕が以前よりなくなりはじめた。そこにバーボンウイスキーの伸張とともに、ライ風味の軽快なタッチのカナディアンウイスキーがアメリカで人気を得はじめたことも大きい。
大打撃となったのが1920年からの禁酒法。1933年に撤廃後、ライウイスキーはうまく立ち直ることができなかった。
ケンタッキー州では禁酒法撤廃後、ビーム家4代目、ジェームズ・B・ビームが早々と蒸溜を再開し、それがケンタッキーの蒸溜業界を刺激し、バーボン復活の道を歩ことになる。また「ジムビーム」というブランドの成功も大きい。
さらには1950年代になると東部のライウイスキー生産の撤退がつづくなかで、市場が縮小してもビーム家はライウイスキーもつくりつづけた。これは称賛に価する。いま日本でも飲まれている「ジムビームライ」はおそらくかつてのライウイスキーのスパイシーさを伝えるものではなかろうか。
ちなみにビーム家はドイツ系移民であり、メリーランドからケンタッキーへ入植したのが1785年という早期入植者だった。ウイスキー税反乱よりも前のこと。当時バージニア州ケンタッキー郡で土着穀物のトウモロコシ栽培に従事すれば土地を与えるという奨励策による入植だった。ビーム家はメリーランドでもライウイスキーをつくっていたことだろう。
また現在、ビーム家7代目、フレッド・ノゥが生みだした「ノブクリークライ」は熟成感のある深いコクに独特の甘みも感じられる、極めて洗練されたライウイスキーである。ストレート、ロック、また「マンハッタン」といったカクテルベースとしても優れた味わいを演出する。
こうした職人魂の継承によって、いまライウイスキーが再び脚光を浴びるようになってきた。近年、東部でいくつものクラフト蒸溜所が生まれてきているようだ。アメリカンウイスキーは新たな時代を迎えようとしている。
(第62回了)