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没後120年 エミール・ガレ:憧憬のパリ

2025年2月15日(土)~4月13日(日)

※各作品の出品期間は、出品作品リスト(PDF) をご参照ください。
※作品保護のため、会期中展示替を行います
※本展は10:00~11:00を撮影・会話禁止の「静寂鑑賞時間」としています。詳しくはこちらをご覧ください。
※本展は10:00~11:00を除き撮影可能です。
※本展は富山市ガラス美術館で2024年11月2日-2025年1月26日に開催された展覧会の巡回展です。

出品作品リストPDF

※展覧会会場では、章と作品の順番が前後する場合があります。

プロローグ
1867年はじめてのパリ万博、若かりしガレの面影

磁器装飾職人であったエミール・ガレの父シャルル(1818–1902)は、結婚を機に拠点をナンシーに置き、妻の実家が営んでいたクリスタル製品と磁器を扱う店を継承しました。シャルルはパリでの販売に注力し、1854年頃からパリに受託代理人を立て自社製品の普及に努め、1866年には「皇帝陛下御用商人」の肩書を得ます。1867年のパリ万博では、クリスタルガラス、高級ガラス、ステンドグラス部門で選外佳作賞を受賞しました。

一方、1864年から家業のなかでも陶器デザインを手伝うようになったエミール・ガレ(以下、ガレ)は、1867年のパリ万博で父を手伝い、半年間パリに滞在しました。ここでは、本展の導入として、若かりしガレの原点とも言える作品をご紹介します。

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蓋付コンポート エミール・ガレ 1870年代 
ポーラ美術館 【通期展示】

第1章
ガレの国際デビュー、1878年パリ万博から1884年第8回装飾美術中央連合展へ

1877年に家業を引き継いだガレにとって、1878年のパリ万博は経営面・制作面で初めて指揮をとった国際デビューの機会となりました。バカラやサン・ルイなどの大手メーカーも出品した同万博の第19クラス(クリスタルガラス、ガラス、ステンドグラス)でガレは銅賞を受賞し、世界の大舞台で順調なスタートを切ります。本万博でガレは、ジャポニスム・ブームを反映した日本的なモチーフをあしらった作品や、淡い水色の「月光色ガラス」を発表しています。

続いてガレは、1884年にパリで開催された第8回装飾美術中央連合展に参加します。ガレは同展の審査員宛てに出品作品の解説書を準備しました。本展に向け、いかにガラスと陶器の製法や装飾法について研鑽を積み、刷新したかを記したこの解説書には、未来への意欲と活気に満ちたガレの姿が表れています。本章では、パリに迎えられた初期のガレの様子をご紹介します。

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花器「鯉」 エミール・ガレ 1878年 大一美術館 【通期展示】

コラム1 パリの代理店エスカリエ・ド・クリスタル

ガレ父子はナンシーに拠点を置きながら、パリでの販売促進に注力しました。パリの代理人に販売を委託する父シャルルのスタイルをガレも引き継ぎ、1879年にマルスラン・デグペルス(1844–1896)が公式にガレ商会の受託代理人となり、その死後は息子アルベール(1873–1966)が継承しました。

パリにショールームを構える一方で、高級小売店に販売を任せる場合もありました。美術工芸品店エスカリエ・ド・クリスタルはそうした取引店のひとつです。ここではガレ作品のなかでも、エスカリエ・ド・クリスタルに販売権を許したモデルを取り上げます。

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花器「人物・ふくろう(夜)」 エミール・ガレ 1887‒98年 
ウッドワン美術館 【通期展示】

第2章
1889年パリ万博、輝かしき名声

快調な滑り出しを果たしたガレが、真の意味で輝かしい成功を収めたのは1889年のパリ万博でした。ガラスに対する科学的な研究を重ね、新たな素材と技法を開発し、およそガラス作品300点、陶器200点、家具17点という膨大な出品作品と2つのパヴィリオンを準備したガレは、ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金賞、1886年に着手したばかりの家具部門でも銀賞を獲得し、大成功を収めました。なかでも本万博で発表した黒色ガラスを活用した作品群では、悲しみや生と死、闇、仄暗さなどを表現し、独自の世界の展開に成功しています。ガレの作品に物語性や精神性が色濃く表れるのも、1889年パリ万博での特徴と言えましょう。

この実績によって、翌年、ガレは国立(国民)美術協会の会員に認められ、パリで開催される国立美術協会の年次展に出品するチャンスを手にしました。本章では、1889年パリ万博でのガレの画期的な成果を中心にご覧いただきます。

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花器「ジャンヌ・ダルク」 エミール・ガレ 1889年 大一美術館 【通期展示】

コラム2 パリ・サロンとの交流

1889年のパリ万博での名声を契機に、ガレの交流はパリの社交界へ広がりました。特に同万博において、パリ・サロンの中心人物ロベール・ド・モンテスキウ=フザンサック伯爵(1855–1921)と出会ったことで、芸術文化や社会に影響力のある面々との関係が築かれていったのです。こうしたネットワークの広がりは、ガレ自身をパリの名士へと後押しする一方、世紀転換期のフランス世論を揺るがした「ドレフュス事件」といった社会問題においても、ガレに想像以上の責任を課すことになりました。ここでは、ガレとパリの社交界との繋がりを示す作品をご紹介します。

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栓付瓶「蝙蝠・芥子」 エミール・ガレ 1892年 
サントリー美術館 【通期展示】

第3章
1900年、世紀のパリ万博

1900年のパリ万博は、フランス史上、最も華やかな国際舞台となりました。しかし実際には、地方都市には何の利益ももたらさないといった反対の声もあり、このとき中心となって声を上げた都市のひとつがガレの故郷ナンシーでした。この頃のガレは、もはやナンシーの一市民であるだけでなく、フランスを代表する装飾芸術家としてパリでの地位を固めつつありました。1894年に起きた冤罪事件「ドレフュス事件」におけるドレフュス擁護派としてのガレの急進的な振る舞いも、ナショナリズムが沸き起こるナンシーでは反感を買った一方、パリでは好意的に受け入れられ、故郷ナンシーと国際都市パリの間で、ガレは精神的重圧に苦しみました。

こうした状況で挑んだ1900年のパリ万博でガレは、特にガラス作品において、造形的にも観念的にも、観る者の心を震わす独自の世界観を展開しました。本章では、ガラスと家具の部門でグランプリに輝いた1900年パリ万博の頃の作品を中心に、ガレの傑作の数々をご紹介します。

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昼顔形花器「蛾」 エミール・ガレ 1900年 
サントリー美術館 【通期展示】
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1900年パリ万博受注控え 1900年 サントリー美術館 【通期展示】

エピローグ
栄光の彼方に

1900年までの成功の裏側で、その準備に疲弊し、社会問題のなかで戦い、故郷ナンシーでは名声ゆえの反発を買うこともあったというガレ。新しい世紀を迎えた1901年あたりから、彼は療養を繰り返すようになりました。そして1904年9月23日、白血病によってその人生に幕を下ろします(享年58)。ここでは、ガレの最晩年にあたる1901年からの4年間、おそらく死を覚悟していた彼の心情と、独自の芸術のために奔走し、その人生を捧げた、ガレの集大成とも言える作品をご覧いただきます。

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花器「海馬」 エミール・ガレ  1901年 パリ装飾美術館
Paris, musée des Arts décoratifs ©Les Arts Décoratifs 【通期展示】
https://madparis.fr/
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脚付杯「蜻蛉」 エミール・ガレ 1903‒04年 
サントリー美術館 【通期展示】

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