2022年4月16日(土)~6月12日(日)
※各作品の出品期間は、出品作品リスト(PDF) をご参照ください。
※作品保護のため、会期中展示替を行います。
※会期は変更の場合があります。
※本展は「為朝図」「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のみ撮影可能です。
北斎は、安永7年(1778)頃、当時役者絵で知られていた浮世絵師・勝川春章に入門し、「春朗」と名乗りました。師と同様、歌舞伎を題材とし、勝川派独特の様式で役者絵などを描きました。
師の没後は勝川派を去り、寛政6年(1794)から4年間ほど、北斎は「宗理」と名乗ります。それは、俵屋宗達や尾形光琳ら、いわゆる「琳派」に連なることを宣言するものでした。北斎作品の主題と様式の幅は広く、日本や中国の様々な様式、および当時日本に導入されたばかりのヨーロッパの技法を学び、浮世絵ではそれまで主要ジャンルではなかった風景をも主題として、実験的な試みを開始しました。
「北斎」という、今日最も知られた号を名乗り始めたのは寛政10年(1798)、39歳の時で、以後は特定の流派に属さず、独自の芸術を追求していきます。とくに40代、50代は肉筆美人画や読本挿絵の依頼が殺到し、成功を収めました。
そして50代に入ると、新たに「戴斗」という号を名乗りますが、これは「北斗七星を戴く」という意味で、日蓮宗の信者であった北斎の深い信仰心を表しています。さらに、数え61歳を迎えると、号を「為一」と改めますが、世界と「一(つ)と為」し、再び「一(歳)と為」る、という意味が込められています。
江戸時代には、富士を神聖な存在として捉える富士信仰が盛り上がりを見せており、北斎もまた、富士を崇高な山として敬愛していました。作品でも何度も富士を取り上げており、70歳になると富士がより中心的なモチーフとなっていきます。輸入された藍色の色料、プルシアンブルーを使用した、《冨嶽三十六景》のシリーズは、北斎のそれまでの画業の集大成となりました。
その後、天保5年(1834)には、号を卍(「万事」「あらゆること」の意)に変更するとともに、富士をデザインにした新しい印章を使い始めました。卍の号と富士の印章の両方を用いた最初の作品のひとつは、版本の傑作『富嶽百景』です。《冨嶽三十六景》は、様々な人間模様のなかに、不動の存在としての富士を配置しましたが、『富嶽百景』では、富士の権威は俗世を超えるものとして捉えられました。
富士と並んで、北斎が人生を通じて魅かれたのは、多様な水の造形です。川や滝、海、とりわけ波は、年を重ねるごとにさらに大胆で動的なものになりました。《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》を始め、北斎は生涯をかけて、水の表現を追求しました。
北斎は人間や自然をつぶさに観察し、「もののかたち」をとらえる技を磨きました。しかし、ただ現実を描写することを目的としていた訳ではありません。北斎は、花鳥画や名所絵の長い伝統を踏まえつつ、やがてそれらから決別していきます。北斎の「自然」は、文学的連想や文化的含意によって、表面的な表現以上の意味を持つようになりました。
加えて、江戸時代には交通網が整理され、名所図会などのガイドブックが多数出版されるなど、日本各地の情報が以前よりも入手しやすくなったため、北斎ら絵師たちは、風景を描くために必ずしも現地を訪れる必要はなくなりました。また、作品の制作意図としても、実景の記録を作ろうとしていた訳ではありませんでした。有名な《諸國瀧廻り》のシリーズには、北斎がよく知った場所と、訪れたことがなかった(かもしれない)場所、有名だが行くことのできない場所を想像して描いたものも含まれています。北斎にとって風景画は、頭に浮かんだヴィジョンを形にする場でもありました。
北斎は、すべての現象には魂があり、互いにつながっているという、仏教の思想を表現することを目指していました。北斎の筆は、日常に神秘を見出し、それによって形而上の世界と交わり、その様相を人々に伝えようとしたのです。
江戸時代の日本では、中国文化がいたるところに存在していました。絵画様式の基礎や画題の多くは、いずれも中国から入ってきたものです。そして北斎は日本と中国の文化の両方に造詣が深く、とくに和漢の偉大な歌人や詩人、歌や詩に詠まれた情景をしばしば絵画化しています。北斎は型に捕らわれない自由な発想で、独自の解釈を加えた新しい文学イメージを生み出しました。
また、信仰や幻想など、目に見えないテーマであっても、北斎は想像力を駆使し、現実感のある描写へと仕上げています。たとえば《百物語》の妖怪たちは、まるで目の前にいるかのようなリアリティを持っています。北斎は高齢になっても、道釈人物や神、恐ろしい幽霊などをしばしば取り上げ、芸術の力でそれらを呼び覚まし、世に解き放ちました。
北斎は、現実の世界と想像の世界をたやすく行き来することができた稀有な絵師といえるでしょう。
浮世絵版画の制作は、版元・絵師・彫師・摺師から成るチームの密接な連携作業によって行われました。北斎の作品は、制作に関わる者と共に仕事をし、彼らから学ぶことによって、より高いレベルに到達しました。一方で北斎は、自分が習得したことは惜しみなく人に伝えようとしました。北斎にとって絵とは、閉鎖的なものではなく、世界とつながる手段であり、一部の社会のみならず、すべてに開かれているものでした。
高年の北斎と一緒に住み、共同制作を行っていたのが、娘のお栄(画号「応為」)です。お栄がいつから一緒に住むようになったか、はっきりとはしませんが、北斎が60代後半から70歳の頃と思われます。北斎の制作にお栄がどのように関わったのかは謎ですが、「北斎」の作とされている作品の多くに助力していたことは確かでしょう。
北斎は意識的に、自分の技法と世界観をすべての人々と共有しようとしていました。門弟たちの手本および入門書として肉筆画帖を制作し、時には絵手本として版行しました。彼の絵手本の多くに「伝神開手」という副題が付けられているように、北斎の作品と思想を支えているのは、万物の精神を伝えたいという内なる欲求でした。
肉筆画は、彫師・摺師との連携で作られる版画とは違い、絵師の息づかいが直に感じられる点に特徴があります。北斎の肉筆画制作のピークは、40代から50代半ばと、75歳頃から没年までの2期で、いずれの作品からも、確かな絵画技術と豊かな想像力が感じられます。
最晩年はとくに制作の中心を肉筆画へと移します。『富嶽百景』の跋文で北斎は、自ら描く絵が100歳で「神妙の域」に到達し、110歳で「一点一格にして生きるがごとくならん」と述べていますが、その言葉も肯けるほど、一点一点が独特の迫力を宿しています。弘化4年(1847)に88歳となり、少しでも命を永らえて絵を極めたいという思いはさらに切実となりました。北斎は「百」と彫った大きな印を新しく作り、以後その印章のみを使用しました。北斎が亡くなったのはその2年後です。これらの最晩年の作品は、絵の力を信じた北斎が、その実現に捧げた畢生の集大成であり、最後の熱狂的な挑戦であったのです。
本展を締めくくる本章では、壮年期から最晩年までの肉筆画の名品を通して、絵画制作と真摯に向き合い続けた北斎の姿を追います。
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