2015年8月5日(水)~9月27日(日)
※こちらの展覧会は終了しております。
幕末の天保12年(1841)、藤田傳三郎は長州萩(はぎ)(現・山口県萩市)の造り酒屋に生まれました。当時の萩といえば、吉田松陰(よしだしょういん)や高杉晋作(たかすぎしんさく)、桂小五郎(かつらこごろう)(木戸孝允(きどたかよし))ら幕末の志士たちを送り出した地として知られ、傳三郎も20代後半にこの町で明治維新を迎えました。
維新後、国事に奔走した同志の多くは官職に就きましたが、傳三郎は商工業に従事し、民間の立場で日本近代化の一翼を担う決心をします。大阪に出た傳三郎は、陸軍関係の装備や物資、労働者の手配に始まり、鉄道敷設、トンネルや橋梁の建設、干拓、疎水工事、鉱山の操業など、さまざまな事業を手がけ、関西屈指の実業家となりました。
明治維新という革命は日本を急速に近代化させ、傳三郎も富の恩恵を得ましたが、その一方で、政府の欧化政策は日本の伝統文化の崩壊をもたらしました。傳三郎は、廃仏毀釈によって仏教美術品が破壊されたり、海外に散逸していく危機を憂慮し、これを阻止すべく私財を投じて文化財の保護に努めました。
本章では、廃仏毀釈で廃寺となった奈良・内山永久寺伝来の国宝「両部大経感得図(りょうぶだいきょうかんとくず)」や薬師寺伝来の国宝「大般若経(だいはんにゃきょう)」など、宗教美術の優品をご紹介します。
若い頃から古美術を愛好した傳三郎の美術品収集は、決して道楽のためだけではなく、国の宝を護らなければいけないという強い意志がありました。さらに、芸術や文化は国の基盤であると考えていた傳三郎は、自ら考察を重ね、日本人が古来愛玩してきたものを系統立てて網羅的に集めようと努めました。絵画や墨蹟、漆工、金工、染織など多岐にわたるコレクションからは、傳三郎と子息たちの強い思いがうかがえます。
なかでも本章では、中世の和様の書や絵巻の名品をご紹介します。遣唐使廃止の頃になると日本独特の国風文化が広まり、かたちに柔らかみのある仮名文字が生み出されました。仮名文字の登場は、私たち日本人に表現の自由を与え、日記や和歌、物語など、文学の発展にも大きく貢献しました。
このような物語を描くメディアの代表例が「絵巻」です。日本美術の歴史をたどっていくと、屏風や掛軸など、多くの文物が中国に由来していることを知ります。巻物も例外ではなく、その源流は中国の画巻(がかん)に求めることができますが、日本では巻物の形式が独自の発展をとげ、物語を描く日本オリジナルの絵画へと進化しました。
明治維新で社会に大きな変革が起きると、それまでの日本文化に対する関心が急激に衰退し、茶の湯も多くの支持者を失いました。しかし、やがて勃興した政財界人が茶の湯に強い関心を寄せ、日本美術の保護とともに新たな数寄(すき)文化を流行させました。傳三郎も武者小路千家(むしゃこうじせんけ)流と表千家(おもてせんけ)流を学び修め、茶の湯を趣味とする近代数寄者(すきしゃ)の一人として、同郷の井上馨(いのうえかおる)や三井物産の創始者・益田孝(ますだたかし)(鈍翁(どんのう))たちと社交を重ねました。
そもそも茶の湯は、水墨画や墨蹟などとともに、禅宗を通じて中国から喫茶の風習が伝来し、日本で発達した歴史があります。茶室の床の間を飾る掛物(かけもの)も、茶の湯が発祥した室町時代中期には、中国・宋~元時代の唐絵(からえ)が理想とされ、やがて禅僧の墨蹟が主役を担うようになりました。
本章では、茶掛(ちゃがけ)として珍重された墨蹟や中国の宋元画、またそれに倣った日本の水墨画など、傳三郎たちが床の間に掛けて楽しんだ名品をご紹介します。
傳三郎は、成功で得た人望や社会的地位から、自らの事業のほか、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)や大阪紡績会社(現・東洋紡績)、宇治川電気(現・関西電力)など、多くの新会社設立にも関わりました。さらに社会文化事業では、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の創設や大阪日報(現・毎日新聞)の再興に携わり、学校教育に対しても多額の寄付を行ないました。
傳三郎の温厚な人柄は、人望だけでなく、茶道具の名品をも引き寄せたようです。戦災により、残念ながら傳三郎の茶会記などは現存しませんが、傳三郎は亡くなる10日前に、終生手に入れたいと熱望していた稀代の名品「交趾大亀香合(こうちおおがめこうごう)」を念願叶い手にしたという逸話があります。さらに子息たちも、長男・平太郎が天下の名碗「曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)」(国宝)を、次男・徳次郎が「御所丸黒刷毛茶碗(ごしょまるくろはけちゃわん) 銘夕陽(せきよう)」(重要文化財)などを収集しました。
本章では、傳三郎たちが収集に情熱を傾けた茶道具の名品をご紹介します。
かつて藤田家は、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作の人形浄瑠璃「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」の舞台となった大阪市都島区網島町に広大な土地を所有し、傳三郎が自ら図面を作って邸宅や庭園を造営しました。昭和20年(1945)の大阪大空襲でそのほとんどが焼失してしまいましたが、焼け残った蔵の一棟が現在、藤田美術館の展示室となっています。
傳三郎といえば、実業界随一の趣味人として知られます。茶の湯や建築・造園のほか、能楽は家族と一緒にたしなんでおり、邸内には能舞台も備えられていました。そのため、藤田家のコレクションには能装束や面(おもて)も見られ、実際に身に着けて舞ったものも含まれています。
また、近代日本画家・竹内栖鳳(たけうちせいほう)(1864~1942)など、傳三郎らと同時代画家の作品も収集されており、傳三郎たちの関心は、古美術に対してだけでなく、近世から当時の現代作家にも向けられていたようです。
本章では、藤田家のコレクションの広がりをご紹介します。
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