2008年12月23日(火・祝)~2009年1月26日(月)
※作品保護のため会期中、展示替をおこなう場合があります。
※各作品の展示期間については、美術館にお問い合わせください。
日本で独自に発展した漆工芸・蒔絵は、極めて膨大な手間を要するため、たいへん高価なもので、16世紀までは寺社や貴族など一部の特権階級のための調度品でした。ここでは、10世紀から16世紀にかけての国宝、重要文化財を含む優品で、輸出漆器誕生以前の蒔絵の歴史を辿ります。
桃山時代、豪壮好みの武将たちは内装を金碧障壁画で彩り、柱や框(かまち)、調度品を蒔絵で飾りました。新興の武士たちの需要に応え、それまで蒔絵を施されることのなかった日用の膳椀類や建築部材を絢爛かつ手早く作るよう工夫したのが「高台寺蒔絵」です。ポルトガル人が種子島に漂着し、日本が初めて西洋世界と出会ったちょうどこの頃、来日した西洋人が目の当たりにした「高台寺蒔絵」の美、すなわち、黒漆の面に金粉を蒔くことで文様を浮かび上がらせる勇壮絢爛な漆黒と黄金の美をご覧いただきます。
16世紀後半に、「南蛮人」と呼ばれるポルトガル人やスペイン人が来日しました。キリスト教の宣教師たちや、大航海時代にアジア各地に貿易拠点を築き、寄港地それぞれの工芸技術で宗教用具や家具を作らせていた商人たちは、蒔絵の美しさに魅了され、漆職人たちに祭礼具や家具を注文しました。彼らが着目したのは、当時の日本であまり作られていなかった貝を磨いて貼り付ける「螺鈿」という技法。蒔絵の装飾に螺鈿を加え、より豪華な漆器を作らせました。南蛮人と日本文化の交流により誕生したのが、最初の輸出漆器である「南蛮漆器」です。
7世紀の江戸幕府の鎖国政策により、ヨーロッパ諸国ではオランダの東インド会社だけが長崎出島での交易を許されました。それに伴い、輸出漆器の様式も変化します。すきまなく蒔絵と螺鈿で器面を埋め尽くした「南蛮漆器」から、黒漆の余白を生かした絵画的表現の蒔絵へ―この新しいスタイルの蒔絵はオランダ人を「紅毛人」と呼んだことに由来し「紅毛漆器」と呼ばれます。ヨーロッパの王侯貴族は、彼らの富と権力の象徴として、競って蒔絵を集め、蒔絵を一部に組み込んだバロックやロココ様式の家具がヨーロッパで作られるようになりました。
蒔絵が貴族の居室を飾るようになった背景には、後に「シノワズリ」と呼ばれることになる東洋趣味の流行がありました。ヨーロッパにはない異文明の物事・風俗(それらは“東洋”としてひとまとめにされていました)に対して抱いた憧れや好奇心が、18世紀のロココ趣味と融合したのです。シノワズリの流行は、自らの装飾美術の伝統に東洋を組み入れ、さらに、自らが思い描いた東洋風のイメージをもとに商品を発注することで、東洋の様式に変化をもたらすことにも発展したのです。
フランス国王ルイ16世王妃マリー・アントワネットは、たいへんな蒔絵のファンでした。質・量ともにヨーロッパ随一を誇るアントワネットの蒔絵コレクションの中には、輸出用の注文品ではなく、上質でありながらも、京の店先で選ばれ買われたと考えられるものもあります。本展では特別に、それらが伝わるヴェルサイユ宮殿美術館、ギメ美術館所蔵の小品とあわせて、スウェーデン王室、ザクセン公アウグスト強王ゆかりの宮殿、イギリス貴族の館バーリーハウスなどに伝わる同種の小品コレクションを一堂に展示します。日本にほとんど残っていない、まるでタイムカプセルのようにヨーロッパで大切に伝えられてきた貴重な小品をお楽しみください。
産業革命を遂げたイギリスでは、19世紀半ばに登場した新興ブルジョワジーが、絶対王政期の東洋趣味を手本とした蒔絵を愛好し、亡命貴族が手放した17、18世紀の作品や、万国博覧会に出品された作品などを購入しました。折りしも、日本では、幕藩体制が滅び、蒔絵師の仕事が激減していました。このとき活路となったのが、300年にわたって開拓されてきた蒔絵の海外需要であり、新しい需要者に向けて、技術の粋を集めた精細な作品が輸出されることになったのです。産業革命を遂げたイギリスでは、19世紀半ばに登場した新興ブルジョワジーが、絶対王政期の東洋趣味を手本とした蒔絵を愛好し、亡命貴族が手放した17、18世紀の作品や、万国博覧会に出品された作品などを購入しました。折りしも、日本では、幕藩体制が滅び、蒔絵師の仕事が激減していました。このとき活路となったのが、300年にわたって開拓されてきた蒔絵の海外需要であり、新しい需要者に向けて、技術の粋を集めた精細な作品が輸出されることになったのです。
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