受賞のことば
社会・風俗2023年受賞
『殉教の日本―近世ヨーロッパにおける宣教のレトリック』
(名古屋大学出版会)
パリ高等研究実習院宗教学・思想専攻博士課程修了。博士(宗教学)。スイス・フリブール大学歴史学部博士課程修了。博士(近世史)。ハーバード大学歴史学部客員研究員などを経て、現在、京都大学白眉センター/人文科学研究所特定准教授。
著書 『岩波講座 世界歴史 第15巻』(共著、岩波書店)など。
論文 「奇跡を実験する」(『現代思想』2023年10月号)など。
日本における近代的な歴史学は、1887年東京帝国大学に赴任してきたプロイセン出身の歴史学者、ルートヴィヒ・リースから始まりました。彼は、実証的な歴史学を提唱し、歴史学を科学にしようとした、かのレオポルト・フォン・ランケの系譜に連なる歴史学者です。現在維持されている日本史・西洋史・東洋史の三分野に分断された歴史学の伝統は、当時はまだ確立されておりませんでしたが、日本における歴史学は、実質的には西洋史、もしくは世界史として始まったのです。
リースは、日本が西洋から一方的に西洋の歴史を学び、それを真似るべきだとは考えていませんでした。彼は、日本人が独自の見地を示すことで世界の歴史学に貢献できると信じ、そのための好適なテーマとして、現代で言われるところの東西文化交流史、もしくはキリシタン史の研究を日本人の弟子たちに積極的に勧めただけでなく、自ら資料を収集し研究し、その成果を執筆しました。その代表的な弟子として、本書でもたびたび引用した村上直次郎、幸田成友の名前があげられます。実際、彼らの研究は、西欧言語の一次資料を扱い、未だなお引用されるに足る知見が多く遺されています。リースの尽力により日本で初めて刊行された歴史学の学術雑誌『史学雑誌』は、初期には毎号のように、この種のテーマを扱った論文が掲載されました。
しかし、リースがヨーロッパに帰国後、日本では日本史・西洋史・東洋史の三つの異なる歴史文化が醸成されることになり、結果としてリースが提唱したテーマはキリシタン研究というマージナルなテーマとして日本史の周辺的分野に押し込められました。本書は、よく東西文化交流史、もしくはキリシタン研究とみなされますが、実際に読んでいただくと分かるように、そうした研究の枠組みが自明であることを疑問視し、東西文化交流という概念自体を批判的に解体することに主眼があります。その意味で本書は、リースの提唱した原点に立ち返り、南欧諸言語に加えてラテン語、ドイツ語、フランス語など複数の西欧言語資料および多数の図像資料に依拠しながら、世界史的視点(つまり現在通用する分野区分に忠実に従えば西洋史)から日本を位置付けました。
好むと好まざるとにかかわらず、今後わたしたちが日本列島の外に出て働くことになった時、異文化・異言語が交錯する世界で、あの有名なゴーギャンの絵のタイトルのように「どこから来て、どこに行き、何者なのか」を常に個々人が問われるようになるでしょう。言語の問題以上に、教養として身につけた歴史的な思考が、自分が自分でいるために必要になってくるはずです。私は本書がそのような教養の糧になることを願っています。本書が出版されたのは2022年度、すなわち歴史教育に歴史総合が導入された年になります。かつての日本史・西洋史・東洋史の三分野は、教科書的には再考が促され始めていると言えるでしょう。意図したわけではないのですが、結果的に本書がこの年に出版されたことには意味があるのではないかと信じています。
最後に、名古屋大学出版会の編集者の橘さんには、私を見つけてくださってありがとうございます、と申し上げたいです。また同編集者の三原さんと家族には、本の完成を信じ最後まで伴走してくれたことを心から感謝しています。私は彼らから、読むことも書くことと同じくらい能動的な創造の行為であることを学ばせていただきました。