パリのオペラ座近くにあるハリーズ・ニューヨーク・バーを訪ねた日本人はかなりの数にのぼるだろう。いろいろなスタンダードカクテルを創案したといわれているバーだ。
1911年、アメリカ人によってニューヨーク・バーの名で創業され、1923年にイギリス人のバーテンダー、ハリー・マッケルホーンが店を買い取り、いまにつづく老舗である。
有名なバーとなった理由は1920年代、作家ヘミングウェイをはじめとしたパリのアメリカ人たちに愛されたことによる。禁酒法下のアメリカでは満たされない酔いをこのアメリカン・バーはもたらしたのだ。
最初にわたしが訪ねたのは25年前。そのとき3時間も取材させていただいた。とても気さくな対応でズルズルと時間は延び、後半はすすめられるままにカクテルを飲んでしまい、かなりいい心地になった。
このバーで1933年に生まれたと伝えられているカクテルが「サイドカー」だ。
ただし創ったとされているハリー・マッケルホーン自身が1919年に著したカクテルブックでロンドンのバックスクラブという店のバーテンダー作としている。実際はハリーズ・ニューヨーク・バー誕生ではない。
わたしはこういうエッセイを連載しながら、定説とされているエピソードを信じているか、と聞かれると「わかんない」と応えるしかない。古くからあるカクテルに関しては、声高に叫んだもの勝ち、噂に上ったもの勝ちみたいなところがある。
いまのように情報伝達が発達していなかったのだから仕方がない。
酒が広く流通すれば、世界のどこかで同じレシピが生まれていてもおかしくない。ジンベースの「ホワイト・レディ」、ウオツカベースの「バラライカ」、テキーラベースの「マルガリータ」など共通したスタイルもある。現代からみればアレンジにしか過ぎず、いつ誰がつくったのか、ほんとうのところはわからないものが多い。さらには、カクテルブックを編纂したもの勝ちといった状況さえもある。
素性が正確にわかるものが増えはじめたのは第二次世界大戦が終わり、世の中が少し落ち着いた1950年代以降からではなかろうか。メディアの発達が大きい。それ以前のものの多くは、広いこころで受け止めるしかない。
またアメリカの禁酒法の罪も大きい。大消費市場が禁酒をおこなったのだ。施行前の禁酒運動の高まり、圧力によってかつて酒類業界に携わったものたちが多くの歴史的資料を廃棄したともいわれている。カクテル王国といわれながら、思いのほか過去の資料が少ない。
早い話、古いカクテルエピソードやそこから名が出るバーテンダーの話には胡散臭いものがある。誇張、美化されているものもある。でも真っ向から否定はしない。
嗜好品である酒は楽しく飲めばいいのであって、古いエピソードを信じようが信じまいが、笑って話せばいいのではなかろうか。
ハリーズ・ニューヨーク・バーのバーテンダーたちは、“俺たちの店のカクテル”として誇りを持ってサービスしている。その心意気がいい。そしてカクテル「サイドカー」の名を高め、広めたバーのひとつであることに間違いはない。