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ビーム・ファミリー・ヒストリー

バーボン発展のきっかけは南北戦争(1861〜65)中、第16代大統領リンカーンが故郷ケンタッキーを北軍の兵站地にし、物資を各地の戦線に供給したことによる。これによりバーボンも広まっていった。また戦中に東部資本がケンタッキーに入り込み、戦後は産業革命がおよび、蒸溜業の企業化が進む。

2代目によって蒸溜事業の基盤を築いていたビーム家にとっては理想的な展開となる。

3代目デイヴィッド・M・ビームには父親譲りの先見の明があった。豊かな水源はもちろん、鉄道駅と電報電信局がある近くに蒸溜所を移設し、流通と情報網を確保する。「オールド・タブ」の味わいはたちまちにして知れわたり、ナショナルブランドへと成長し、一世を風靡することとなった。

さらには1894年に30歳で4代目となったジェームズはビーム社をバーボンのトップ企業へと押し上げるが、バーボン興隆の一方で禁酒運動が活発化する。20世紀に入りより激しさを増し、アメリカは1920年から1933年まで禁酒法がつづく。酒類業界全体がゼロにリセッットされてしまった。

ジェームズはその間、バーボンへの情熱を失うことなく耐え忍ぶ。鉱業や農業など新事業に着手しながら時代が変わるのを待った。そして法撤廃が決まるとすぐに再建計画を立て、クレアモントに新蒸溜所を建設。撤廃後わずか120日で蒸溜を再開させたのだった。

驚異的ともいえる彼の行動は蒸溜業界全体を刺激し、再生へと導く。その功績は伝説となり、“バーボン中興の祖”と呼ばれて讃えられている。

1942年、ジェームズの愛称ジムを冠した「ジムビーム」を発売。5代目ジェレマイアが世界市場を開拓し、「ジムビーム」を世界販売数量No.1バーボンに成長させる。その座は1973年以来、いまだに揺らぐことがない。

ジェレマイアには子供がいなかった。そのため製造、経営の指揮を取りながらも甥であるブッカー・ノウにビーム家のスピリッツと技術を伝授する。

6代目となったブッカー・ノウはプレミアムバーボンという新しいカテゴリーを創出。ビーム家が磨きつづけた技術と香味の粋を結集して、自らの理想と信念を貫いてスーパープレミアムなクラフトバーボンを生み出した。「ノブクリーク」をはじめとする彼が生み出したクラフトシリーズは世界中のウイスキー通を唸らせ、権威ある酒類コンテストで栄誉に輝きつづけている。

いま7代目フレッドがクラフトバーボンの品質に目を光らせ、さらに高い香味の頂を目指している。

 

一方でビーム家は、1960年代からライウイスキー製造の撤退がつづくなか、市場規模に関係なくライウイスキーをつくりつづけてきた。

「ジムビームライ」はその証であり、フレッドが創出した「ノブクリークライ」はより高品質な香味を目指した傑作だ。

さらには一族から他社蒸溜所のマスターディスティラーや技術者を数多く輩出してもいる。自社も含めるとその人数は30人を超える。

その証をひとつ紹介しよう。「メーカーズマーク」のサミュエルズ家との関係だ。サミュエルズ家は長年バーズタウンで生活していたが、「ジムビーム」を生んだジェームズ・B・ビームの隣に住んでいた時代があったらしい。

サミュエルズ家が本格的にウイスキービジネスをはじめたのは1840年、3代目のテーラー・ウィリアム・サミュエルズの時だった。20世紀になり禁酒法撤廃後、サミュエルズ家も事業復活に向けて動き出すが、多くの蒸溜業者同様、なかなか軌道に乗せることができなかった。

再生させたのは6代目ビル・サミュエルズ・シニア。1953年に現メーカーズマーク蒸溜所での蒸溜を開始することによって復活を成し遂げる。6代目ビルの右腕となったのがジェームズ・B・ビームの甥、エルモ・ビームである。

エルモは蒸溜所創立当初より技術者として「メーカーズマーク」の香味開発を支えた。このようにサミュエルズ家とビーム家のつながりはとても深い。

ビーム家7代の歩みはアメリカンウイスキーの歴史そのものであり、一族の情熱がバーボンを世界の酒に高めたといっても過言ではない。

ビーム家はまさにバーボンの王家である。

(第71回了)

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