前回、反酒場連盟(Anti-Saloon League)が政治的影響力を持つまでの勢力となり、世界の工場へと成長したアメリカ産業界の大物経営者たちが彼らの活動を支援したことを述べた。
生産効率を上げるためには、労働者の飲酒を抑えることが第一と考えたのである。そして移民たちの生活を援助しながら地域の名士となった酒場経営者の政治力を削ぐことも目的としていた。
さて、気分を和らげるために、今回は禁酒法施行以前にアメリカで最も愛されていたライウイスキーを供としよう。酒類業界暗黒の時代を見つめながら、アメリカンウイスキー業界を牽引してきたビーム家のクラフトシリーズのひとつ、7代目フレッド・ノウが創造した傑作「ノブクリークライ」の深い熟成感と滑らかなコクを味わい、こころを温めよう。
では、前回のつづき。憲法修正第18条が提出される以前、反酒場連盟の勢いとともに、すでにさまざまな州で酒類規制がおこなわれていた。
自治体選択権法というものがあり、1913年にはすでに9つの州で禁酒法が施行されており、また31州の市や郡、小さな町や村で酒類販売が禁止されていた。1917年の段階ではアメリカ国民の50%以上が、なんらかの酒類規制のある土地で暮らしていたようだ。
この間には伸長した炭酸飲料業界、そしてコーヒー・茶業界なども国家的な禁酒法制定への動きに同調しはじめる。禁酒となれば自分たちの市場が大きく膨らむからだった。さまざまな業界が反酒場連盟側につく。
そして第一次世界大戦(1914—1918)が禁酒派にとって好都合ともいえる法制化への動機づけとなった。
アメリカが遅ればせながら参戦したのは1917年4月。これによりドイツへの反感が頂点に達した。人口比率としてドイツ語圏からの移民が最も多かったが、当然ドイツ系の人々の発言力は低下する。
いまも名高いいくつかのビールブランドはドイツ系アメリカ人が創業したもので、まずビールに厳しい目が向けられた。ビールもドイツも敵であり悪であるの声が戦争ヒステリーによって高まる。戦時の食料用穀類不足への懸念、穀類を原料とする酒への反発にもつながった。
高まる反感にビール業界は、ウイスキーをはじめとするアルコール度数の高いスピリッツのほうが悪影響だと主張しはじめる。規制から逃れる思惑があった。そのため結束して対応しなければならない酒類業界の足並みが揃わなくなる事態を招いたのだった。