前回まで19世紀から20世紀はじめにわたるアメリカでのソーダ水の歩み、興隆したソーダ・ファウンテンについて語ってきた。今回は清涼飲料が大きく発展していく間のアメリカ飲料事情について話してみたい。東部都市部と比べて、開拓途中の中西部とのインフラ整備格差も見えてくる。
アメリカのナショナルドリンクは、まず植民地時代にはラムが一時代を築いていた。独立国家となり、次に愛されたのがウイスキーである。
18世紀末から独立時13州のなかでも重要な土地であったフィラデルフィアのあるペンシルベニア州を中心に蒸溜されていたライウイスキーを主役として大きく成長していく。18世紀末にはバージニア州の一部がケンタッキー州となり、トウモロコシ栽培従事者への奨励策もあって東部からの移住者が増え、バーボンウイスキーがつくられるようになったのも大きい。
ビールは早くからつくられていたが、伸長していくのは技術革新によって大量生産でき、瓶での流通と王冠が開発される19世紀後半のことになる。それまでは自家醸造であり、日持ちもよくなかったのである。
ウイスキーへ目が向けられたひとつの要因に、古くからヨーロッパにあった蒸溜による不老長寿、スピリッツ信仰がある。薬のように捉えられていた。熱病、悪寒や風邪、消化促進など、豊かに実る穀物を蒸溜した酒にはさまざまに効果があると信じられており、移民国家であるアメリカでもそのままに受け入れられた。ソーダ水が薬局から広がっていったのと同様の現象である。
また水の問題があった。安全な飲み水をなかなか入手できない環境にあった。自治体による水道システムも東部から整備されていく。都市部で公有水道設備がはじめて完備され、市民に水を安定供給できるようになったのはフィラデルフィアで1822年のこと。中西部においての水道整備はずっと後になる。
だから飲料としても安心安全なのは蒸溜酒、スピリッツとなる。ワインの場合、19世紀半ばに西海岸側がアメリカとなるまでは輸入された贅沢品であり、上流階級の酒でしかなかった。
冷蔵設備がない時代のこと。ビールだけでなく牛乳もまた日持ちがよくない。新鮮な牛乳は子供たちに与えるもので、大人の男たちは我慢するしかない。