バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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ジャーキー

もうひとつは経済の動向がウイスキーに追風となった。穀物価格である。19世紀になるとアメリカは西へ西へと国土を広げていく。中西部を領土として獲得したことによって穀物の生産量が伸びたのだが、需要が追いつかない。供給過多で穀物価格が暴落してしまったのだ。

何よりもまだ人口が少なかった。消費地に運ぶにも交通が発達していないから、輸送できない。中西部の場合、輸送の大動脈はミシシッピ川。大きな市場は川を下ったニューオーリンズしかなかった。たとえば麦を栽培、収穫し、命がけでミシシッピ川を下って運んでも、輸送費がまかなえればいい、といった状況に陥る。

そこで農民のなかには家畜にチカラをいれる者たちもいて、とくに豚肉の塩漬けの人気が高く、利益を生んだ。では穀物栽培者たちはどうしたのか。バーボンをはじめとしたウイスキーである。荷として大量となる穀物より、樽に入れたウイスキーのほうが運びやすく、少量でも大金になった。

スピリッツ信仰も加担したが、何よりも劣化の心配がない。ニューオーリンズに輸送すると豚肉の塩漬けの3倍超の利益を生んだ。これもケンタッキーがウイスキーの里となった理由のひとつでもある。

もうひとつの豚肉の塩漬けは焼くだけで美味しい。またこれに熟成、天日干しによる乾燥、あるいは燻製、といった手を加えれば、ベーコンやハム、ジャーキーとなる。とても便利な食材だった。

牛肉を加工した、いわゆるビーフジャーキーが一般的になっていったのは19世紀半ば以降の時代ではなかろうか。これはあくまでわたしの推論である。

ジャーキーはアメリカ先住民が保存食としていたものだ。これを携帯食、非常食として最も活用したのがカウボーイである。彼らの仕事は南部のテキサスで生まれた。(*仕事ぶりは連載30回『ロングドライブ』をご一読いただきたい。また20世紀半ばを過ぎたベトナム戦争時、ビーフジャーキーは兵士の携帯食となり、注目されることとなった)

メキシコに接するテキサス州は1845年にアメリカ合衆国に併合された。それ以前、メキシコから牛が運ばれてきており、牧畜が盛んだった。まずゴールドーラッシュ(1849)に湧くカリフォルニアへとカウボーイたちは牛を運んだ。そして鉄道網が全土にほぼ網羅され、北部でも牛が育つことがわかった1890年代まで彼らは活躍したのである。

その間にビーフジャーキーという加工食品が育ったのではなかろうか。おそらく彼らが活躍する以前の中西部は、ドイツ系や北欧系の移民が多かったこともあり、牛よりも豚がメインだったはずだ。ドイツでは昔から成長に年月のかかる牛はミルクやチーズ製造のために貴重で、牛肉を食べる習慣はほとんどなかった。繁殖力の強い豚の肉を、ソーセージやハムへと加工したのである。

19世紀の中西部で、農民たちの収入源が豚肉の塩漬けとウイスキーだったことはとても興味深い。どちらも相性がいい。ベーコンやハム、ジャーキーとともに飲むバーボン・タイムはとてもとても心地よい。

さて、市販のビーフジャーキーを買って、今夜のつまみにしようか。

ほどよい塩加減。ガツンと凝縮された牛肉の滋味が噛めば噛むほど口中に溢れ出す。バーボンは柑橘系のオレンジっぽい甘みを抱いた、ふくよかで滑らかな味わいの「メーカーズマーク」にしてみよう。

赤い封蝋を被ったボトルをアタマに浮かべながら、さて、飲み方はストレートがいいか、オン・ザ・ロックがいいか。一杯目はハイボールにしようか。

そんな想いを巡らすだけで夜が楽しみになってくる。

(第67回了)

for Bourbon Whisky Lovers