バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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アンチ・サルーン・リーグ(2)

ウイスキー業界もドイツ系が多かった。当時最も飲まれていたライウイスキー業界もそうだし、バーボンウイスキーを代表するビーム家はもちろんケンタッキーにもドイツ系の蒸溜業者がたくさんいた。さらには移民労働者たちの面倒を見ながら政治的影響力を発揮していた酒場経営者たちの立場もより悪くなっていく。

もちろん酒場擁護派もいた。酒場は民主的な場であり、福祉事業をおこなっているようなものだ。移民たちが人生を賭けた新たな生活を踏み出すために、まず相談できる人、場所はどこか。移民たちがアメリカの労働力となっていく上で、酒場の貢献は計り知れない。こう擁護した。

第一次世界大戦参戦から8ヵ月後の1917年12月に憲法修正第18条が両院議会を通過。これは禁酒法制定には憲法を修正する必要があったからだ。その後は反酒場連盟の思惑通り、1919年1月16日、修正決議において3/4の州、当時の36州が批准して、翌1920年1月16日からの施行が決定した。

そして禁酒法に関して規定したボルステッド法(国家禁酒法)が立案される。アンドリュー・ボルステッド下院司法委員長の名をとったものだが、実際の立案には反酒場連盟とその活動を支援する財界の富豪が中心となった。

法案に対してウッドロウ・ウイルソン大統領は拒否権を発動している。しかしながら1919年10月に議会が再可決。0.5%以上のアルコールを含有している飲料の製造、輸送、販売、提供などを禁止した。

国民の多くは、大戦は終わったことだし、ビールくらいは飲めるだろう、と安易に考えていたため、0.5%以上という数値のショックは大きかった。ただしボルステッド法は飲酒には言及していない。このことがまた大きな波紋、矛盾を生み、皮肉な、滑稽な結果をもたらすのだった。

 

1919年末から禁酒法施行の翌年1月16日が近づくほどに、寒さに震えながら酒を買い求める人たちが行き交う姿が街に見られたという。ただし、施行されると一般市民のストックはたちまちにしてなくなった。

結果、密造、密輸、密売が横行。ギャングが介在し、近代的都市型犯罪というものが生まれる。ここでようやく誰もが深く考えもせずに法を制定しまったことに気づいた。禁酒法がどんな事態を招き、社会にどんな影響が生じるか、分析もなく、論じられることも少なかったようだ。

多くの国民が法と戯れた。罪の意識はなく、禁酒法下で酒を飲むことをゲームのように楽しんだのである。悪法の象徴ともいえる現象だった。

およそ14年間にわたる禁酒法時代の様子はさまざまに語られている。ギャング間の抗争、犯罪の増加、もぐり酒場の乱立、女性の飲酒人口の増加、パーティーでの乱痴気騒ぎなど。

第31代大統領となるハーバート・フーヴァー(任期1929年3月4日−1933年3月4日)は1928年、共和党の大統領候補者指名の受託演説で禁酒法について“高貴なる社会的、経済的実験”と述べたが、社会浄化を目指しながらすでに皮肉な結果をもたらしていた。そのため後に“高貴な実験”は揶揄されて語られることにもなった。

民主党の党大会で禁酒法撤廃が掲げられ、その勢いもあって当選したフランクリン・ルーズベルト大統領は1933年3月23日、ボルステッド法に対するカレン・ハリソン修正案に署名。修正案は4月7日には施行となり、まずこの段階でビールや低アルコールの軽いワインなどの製造販売が認められた。

そして1933年12月5日、憲法修正第21条により修正第18条も廃止となる。

現在、オハイオ州ウェスターヴィルにはAnti-Saloon League Museumがある。サンフランシスコには、かつて反酒場連盟支部(1920年設立)があった場所にいまだその看板(イラスト参照)が掲げられ、Bourbon Branchというパンチの効いたユーモアが発揮された酒場になっている。

一度訪ねてここでバーボンやライウイスキーを飲んでみたい。

(第69回了)

for Bourbon Whisky Lovers