バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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ジョー・リッキー

彼はバーテンダーのジョージ・ウィリアムソンにこう依頼した。

まずグラスに、半分にカットしたライムを搾り入れる。ライムの外皮の滴が混じり込まないよう、優しく搾り、果汁のみを入れて欲しい。小さな氷の塊をひとつ(少量のクラッシュドアイスとの文献もあるが、当時、氷は貴重。そのため1 small lamp iceと書かれた文献を尊重)。そしてウイスキー。最後にライムジュースとウイスキーがよく混ざるようにソーダ水を注ぎ入れること。

このフレッシュライムジュースとウイスキー、ソーダ水というレシピのカクテルは、スタッフたちに大好評となったのである。そして考案者の愛称である「ジョー・リッキー」と名づけた。

ここで問題はウイスキー。ある文献には“バーテンダーのジョージ・ウィリアムソンは、店のオリジナル・ライウイスキーを使った”とあり、またある文献には“リッキー氏の地元中西部や南部で愛されているバーボンウイスキー”といったようなことが書かれている。はたして、どちらか。

ワシントンD.C.は東部。ライウイスキーづくりの中心地だったペンシルベニア州やメリーランド州に近い。店のオリジナル・ライウイスキー、というのは素直に受け入れられる。一方、カーネル・ジョー・リッキーの出身地から考えればバーボンであってもおかしくはない。

まあ、創業者シューメーカーに関しても南北戦争に従軍した、と書いてあるものもあり、文献によって細部が微妙に食い違っているので、現段階の調べでは自信を持った推論を展開できない。

カクテルの歩みとしては、この「ジョー・リッキー」が、やがていろいろなスピリッツをベースにしてつくられるようになり、ジンベースの「ジン・リッキー」がメジャーになっていったのである。

実際、1894年の民主党党大会終了時の様子を、ワシントン・ポスト紙がこのような内容で記事にしている。

“その後、夜明けまでそこここで饗宴が催された。さまざまなレシピ、濃さのリッキーが人気を博し、ウイスキーベース、ジンベース、ブランデーベースなど、この世で知られるありとあらゆるスピリッツを使ったリッキーが振る舞われた”

「ジョー・リッキー」の時代は短かったようだ。1900年前後、20世紀に突入する頃にはすでに「ジン・リッキー」が定着しており、カーネル・ジョー・リッキーがニューヨークのホテルのバーで「ジョー・リッキー」とオーダーしても通じず、苛立った、なんて逸話もある。

 

さて、いまわたしは「ジョー・リッキー」を味わっている。ただし小さなロックアイスひとつでは清涼感がない。キーンと冷えた味わいに慣れ親しんだ現代人は、昔の人たちが飲んだ味わいをなかなかそのままには受け入れられない。そこで自分好みにグラスをたっぷりのクラッシュドアイスで満たして楽しんでいる。

ライウイスキーベース説に傾いているわたしは、「ジムビームライ」をベースにすることが多い。これがなかなかいい味わいなのだ。

「ジムビームライ」はまろやかでハーブティー的な感覚があり、他のライウイスキーと比べて口当たりがかなりスムースで、スパイシーな辛みが巧く抑えられている。これをベースにすると、ライの口中香が優しくふんわりと浮き上がる。そして後口がいい。さっぱりとしたライムの酸味とともにライウイスキー独特の甘みが感じられる。

ときにバーボン、スタンダードな「ジムビーム」で味わう。こちらはとても軽快なタッチとなる。ライムのしっかりとした酸味を満喫したい場合は「ジムビーム」をおすすめする。

最後に、『シューメーカー』という店のその後に触れておく。カクテル「ジョー・リッキー」が誕生した1883年にオーナーのシューメーカーが逝去。バーテンダーのジョージ・ウィリアムソンが跡を継ぎ、1890年代にカーネル・ジョー・リッキーが店を買い取り、オーナーとなった。あるいは1883年にカーネル・ジョー・リッキーがオーナーとなった、など文献によっていろいろ。

カーネル・ジョー・リッキーは1903年にこの世を去っているが、店のほうは1917年まで営業していたそうだ。

(第70回了)

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