しかしながらこの「ジョー・リッキー」は別として、当時のアメリカでバーボン&ソーダがよく飲まれていたという文献に出会わない。
以下は推察である。ウイスキーの国であるアイルランドやスコットランドからアメリカに渡って来た移民たちにとっては、ウイスキーはストレートで飲む酒であった。何かを混ぜるとしたら通常は水またはお湯割であっただろう。
イングランドでは19世紀になってソーダ水が飲まれるようになったとき、上流階級はブランデー&ソーダを飲んだ。フランスのぶどう畑が害虫フィロキセラで壊滅的な打撃を受け、ブランデーとワインが枯渇するようになるまで、ウイスキーは遠い北のスコットランドでも辺鄙な場所に住む人たちがつくる酒でしかなかったし、庶民にとって蒸溜酒といえばジンであった。
アメリカでは南北戦争(1861〜65)後の西部開拓がすすむ時代、サルーンではウイスキーのストレートが当たり前だった。強い酒を飲まなければやっていられなかった状況であるし、飲料水保存や流通網の整備状況などいろんな問題があった。東海岸側は別として、中西部では大きな町の酒場でしか良質なサービスが受けられなかった。
19世紀末になって、スコットランドのウイスキー業界はスコッチ&ソーダという飲み方提案で販促をおこなう。これはイギリスでソーダ水が大量生産されるようになったことも要因のひとつにある。
スコッチ業界は北米にもスコッチ&ソーダのプロモーションを仕掛けた。ところがアメリカは次第に禁酒運動が激化し、やがて禁酒法の時代となる。アメリカのウイスキー業界も20世紀はじめにハイボールのプロモーションを仕掛けてはいるが、禁酒法ですべてがゼロになってしまった。
コークハイ(コーラ割)はおそらく禁酒法下でメジャーになった飲み方ではなかろうか。もちろん19世紀後半にコーラが誕生したときにはすでに飲まれていたかもしれないが、禁酒法下でコーラを飲んでいると見せかけて質の悪いウイスキーに割って飲んだ、それから浸透していったと考えられる。
だから単純なウイスキー&ソーダとなると、第2次世界大戦後によみがえったスコッチ&ソーダであり、文献にもなかなかバーボン&ソーダが登場してこないのだと思われる。
19世紀、酒場で喉の渇きを癒す酒はビールやエールだったし、とにもかくにも20世紀初頭に禁酒法下でウイスキーをつくれなかったのが痛い。
バーボンとソーダは相性がいいのに、それが飲めなかったのは残念な話だ。ホワイトオーク・バレルの内側を焦がした樽熟成から生まれたバーボンウイスキーは、原料のトウモロコシの甘さ、樽熟成によるバニラ様の温かみのある甘さを特長としており、ハイボールにふさわしい。基本的にバーボンウイスキーは、大衆が好むソーダ水割に不可欠な甘みを十分に備えているのだ。
ソーダ・ファウンテンが甘みのある炭酸飲料で魅了したように、禁酒法さえなかったら、アメリカ人はバーボン&ソーダをもっともっと愛飲していたことだろう。
極端な言い方をすれば、彼らは最近やっとその美味しさに気づいた。
(第65回了)