バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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ロスト・ジェネレーション

アメリカ中の旗竿のてっぺんに立ち、有名になった者もいる。水中で1843回も上下に跳びはねて世界記録を樹立したと広言する男。口に40枚ものチューインガムを入れて『埴生の宿』を口ずさみながら、4リットルのミルクを飲み干したハイスクールの学生。こうしたすべての行為を皮肉って『サタデイ・イブニング・ポスト誌』は、「アメリカ人は戦争で一番、平和で一番、木に座っている時間、チューイングガム噛み、ピーナッツ割り、水中跳びはねでも一番」と皮肉っている。

20年代のバカ騒ぎの縮図といえるのが、現代ではなんてことのない、ビューティ・コンテストだ。1921年に最初のミス・アメリカを選ぶコンテストが開催されている。場所はアトランティック・シティ。企画したのは町の有力者たち。金儲けが狙いで、保養地として名を売り、旅行者を集め、ホテルを満室にしようというもの。

これは当たった。1回目は出場者わずか8名だったのに、名もない女の子でも有名になれるということで2年後には83名、6年後の1927年には出場者が爆発的に増えて1週間もつづく大祭典となる。

同じ1921年にワシントンでは水着コンテストが開かれている。ポトマック河畔の海水浴場は見物人に沸き返った。それを見たあるリポーターは「当分の間、膝を露出することと、肌にぴったりついた水着を着ることに関しての風紀上の取り締まりは見合わされた。数千の観客は娘たちに拍手喝采を送りながら、息をのんだ」と報道した。


言い尽くせぬほどのお祭り騒ぎがあった20年代。マンハッタンのハーレムではビッグバンドのジャズが、エンターテイナーが夜を彩り、シカゴには禁酒法の網の目をくぐり抜けて一大帝国を築いたアル・カポネがいた。皆、ラジオによって全米に名が知られ、有名人になっていった。ベーブ・ルースが60本のホームランを打ち、リンドバーグが大西洋横断飛行に成功し、ボクシングのジャック・デンプシーのヘビー級タイトルマッチに10万人の観客が集まった。それらの出来事をラジオはたちまちにして伝え、人々は熱狂した。

ただし、狂乱の時代は、あっと言う間に失われてしまう。1929年の大恐慌によって混乱と猥雑と無秩序と、そして活気にあふれたローリング・トウェンティーズは終わりを告げる。

歴史において、わずか10年ほどの魅力的で短い祝祭空間だった。誰もが禁酒法下の狂乱の時代のパレードを楽しんだ愉快な時間であったといえるだろう。さまざまな出来事がバーボン&ソーダのように明るく弾けていた。

(第10回了)

for Bourbon Whisky Lovers