アルフォンス・ガブリエル・カポネ。顔に傷がありスカーフェイスとも呼ばれたご存知アル・カポネは、ニューヨーク、ブルックリン生まれのイタリア系だが、シチリアではなくナポリからの移民の子であったためマフィアの本流に加わってはいない。その彼が都市型犯罪組織の典型 とされるギャング組織を構成し、1920年代後半には影のシカゴ市長 的存在にまでのぼりつめた。
ふつうならば、市民がやるべきことをギャングがやっていた。禁酒法下の酒の売買のことである。「わたしはビジネスマンだ」というのがカポネの口癖だった。彼は酒の密売をはじめ賭博業などで大儲けした。
大衆の需要に応えることで金儲けをする、それのどこが悪い。それが禁酒法に対する彼の言い分だった。
アメリカでは19世紀はじめに禁酒運動が叫ばれはじめ、禁酒連盟や酒場反対同盟などが生まれていく。20世紀になり第一次世界大戦の戦争ヒステリーによって戦時における物資の節約、作業能率などの面から禁酒要請が高まり、とくに酒場反対同盟は強力な圧力団体となった。
1917年、アメリカ議会は禁酒を定めた憲法修正第18条を可決。2年後には禁酒を執行するためのボルステッド法が議会を通過する。
1920年、禁酒法が施行されると同時に、底なしの需要を満たそうと、各都市で一斉にギャングが動きはじめる。ブーツに酒を入れたフラスクを隠していたりしたため密売人はブートレガー(bootlegger)と呼ばれた。ちなみに現在は、非合法の品を指す言葉として使われている。
彼らは、禁酒法発効前に国外に持ち出したバーボンで需要を満たそうとした。キューバやバハマ諸島の港は大いに賑わった。ところがバーボンの在庫はすぐさま尽きてしまう。密造の質の悪い安酒が出回るようになるが、たちまち見向きもされなくなり、本物が必要となる。そうなれば密輸業者が暗躍するしかない。組織力のあるギャングが幅を利かせることになる。
ケンタッキーのバーボンメーカーのみならず、アメリカ全土の酒類メーカーにとって暗黒の時代である。彼らは何もできない。廃業である。ケンタッキーの人たちが愛するミントジュレップの香りも消えてしまった。
アメリカ沿岸から12海里のすぐ外側にスコッチ、ブランデー、ジン、ワイン、ラムなどを供給する貨物船や客船が待ち受け、ギャングの高速艇がそれらの船から酒を受け取り運んだ。こうした密輸入業者はラム・ランナーと呼ばれた。沿岸警備隊も優秀でたくさんの高速艇を押収したが、何しろアメリカの海岸線は長い。いくらでも陸揚げできるラム・ポイントがあり、ラム・ランナーの数も膨大にのぼった。