隣国カナダはアメリカよりも早く、1916年に州ごとに独自の禁酒法が施行されたが、何故か輸出用ウイスキーの生産だけは認めており、またフランス語圏の州での禁酒はゆるいものだった。アメリカとカナダの国境線も長い。いちばんの密輸ルートは夜の闇に乗じて五大湖を渡るルートだった。
最初、ギャングたちはおとなしかった。市民の要求に応えるために必死に働いた。1923年にシカゴ市場が供給過剰になり、ギャング抗争が過熱しはじめる。翌年シカゴは暗黒の街となり、カポネが台頭する。やがて全米の各都市でもシカゴと似たような現象を呼び起こすことになる。
カポネは政治家や警察関係者に金をばらまいた。市長さえもカポネから金を受け取った。彼は事実上の警察署長であり、影の市長となったのである。彼の軍団は91の企業と労働組合を支配し、合法的なビジネスも手がけるようになる。カポネ犯罪シンジケートは合法的ビジネスで1千万ドル以上もの利益を得るようになる。ところがこれはブートレガーで得た年間収益の10分の1以下でしかなかったという。
禁酒法は20億ドルのビジネスを生み出したと言われている。良識ぶった者たちが深く考えもせずにおこなった“高貴なる実験”と揶揄される理由は、カポネを知るだけで十分に頷ける。法律が、大変な悪を呼び起こす結果となった。
1933年に禁酒法が撤廃されたとき、国中が歓喜した。酒類業界も安堵した。ただし、すべてが順調に再生できた訳ではない。
とくにウイスキーづくりは手間と時間がかかる。年月を要する樽熟成があり、製品化をまたずして次々と仕込みと蒸溜を繰り返し、貯蔵庫にストックしていかなければならない。先行投資費用は莫大だ。それゆえ復活を果たせなかった蒸溜所も多い。
バーボン再生に貢献したのがビーム家4代目、ジェイムズ・B・ビーム。かつてビーム家は19世紀半ばから一世を風靡した「オールドタブ」というブランドで富を築いた。そのおかげで余力がまだあったというから凄い。禁酒法撤廃後ただちに再建計画を立て、わずか120日間で蒸溜を再開する。
そして1940年。ジェイムズの愛称を冠した新ブランド「ジムビーム」を生んだ。このときジェイムズは76歳。ブランドを成長させたのは息子の5代目になるジュレマイアだが、ジェイムズの素早い動きがアメリカのウイスキー業界を活性化させ、復活へと導いた。
アメリカンウイスキー史の中で、ジェイムズを“バーボン中興の祖”として讃えているのは、こうした功績によるものだ。
禁酒法で財を成した人がいれば、耐え忍んだ人たちが大勢いることも忘れてはならない。いま美味しいバーボンを心置きなく飲める幸せを噛みしめながら、「ジムビーム」に乾杯しよう。
(第7回了)