2023年2月8日(水)~3月26日(日)
※各作品の出品期間は、出品作品リスト(PDF) をご参照ください。
※作品保護のため、会期中展示替を行います。
※会期は変更の場合があります。
木米のやきものは、中国、朝鮮、日本の古陶磁に着想を得ています。しかしいかなる古陶磁も、その外見を忠実に写し取るのみにはとどまりません。中国の書籍や古器の鑑賞から得た中国陶磁の豊富な知識を基にして、さまざまな古陶磁から形や文様の一部分を抜き出し、それらを独自の視点で再構成しています。こうした大胆な姿勢から、強い個性と不思議な魅力をもつ木米のやきものが生まれました。
木米は10代の頃から偉大な文人・高芙蓉(1722~1784)のもとで篆刻などを習い、また古器物の鑑賞を好み、文人としての修養を積みました。そして自ら望んで陶業を始めたのです。木米は奥田頴川(1753~1811)に師事し、同時代の京焼陶工たち(欽古堂亀祐、仁阿弥道八など)と切磋琢磨します。また30代で出会った『陶説』を翻刻しつつ作陶の糧としました。さらには京都粟田青蓮院の御用焼物師を許され、名工として異才を放っていきます。
本章では、いろいろな古陶磁の要素が木米の視点によって因習にとらわれず自由にブレンドされたやきものをご紹介します。形に、色に、文様に、時には箱書にもあらわれた文人・木米の「遊び」と個性をお楽しみください。
本章では、木米の煎茶器を特集します。18世紀の半ば、売茶翁(1675~1763)が煎茶道具を担いで洛中洛外の景勝の地を選び移動茶店を開き、道行く人々に一杯の煎茶をすすめました。その去俗の生き様は、木米世代の文人たちにも多大な影響を与えます。煎茶は文人の自己表現である詩書画の制作や鑑賞の場と強く結びついた存在になり、京都、大坂を中心に、身分の違いに関わらず広がります。さらには、芸道としての煎茶道も成立しました。
このような煎茶流行の時代、木米は涼炉(=湯を沸かす焜炉)や急須、煎茶碗などを作り30代の頃からすでに好評を得ていました。例えば『煎茶早指南』(享和2年[1802]刊)の中で、木米の煎茶器が「唐物写しに妙を得たるものなり」と評価されていることからもその名声の一端がうかがえます。
中国陶磁を中心にいろいろな古陶磁の要素を自由に換骨奪胎する木米の「遊び」は、煎茶器にも遺憾なく発揮されました。とりわけ、煎茶道花月菴流の祖・田中鶴翁(1782~1848)のために木米が制作した煎茶器に顕著にみられるように、中国の唐~宋時代の茶詩(=茶を主題とした詩)を器表にびっしりと記した文芸の香り高い涼炉や煎茶碗には、自らも煎茶を愛する文人であった木米の個性が強く表出しており、目を奪われます。
本章では、文人・木米の魅力を「交友」という視点から掘り下げます。
例えば、親友で画家の田能村竹田(1777~1835)は「木米の話は諧謔を交え、笑ったかと思えば諭す、真実かと思えば嘘というように、奥底が計り知れない」と伝えています(『竹田荘師友画録』)。竹田に語った壮大な遺言もまた、陶業への深い愛着や文人としての矜持を、冗談めかして表明したものかもしれません。
竹田のほか、儒学者の頼山陽(1780~1832)、僧の雲華(1773~1850)、蘭方医の小石元瑞(1784~1849)といった人々は、木米が晩年に親交した当代一流の文人でした。年若い彼らの中にあって、文字に通じた「識字陶工」として博識で知的ユーモアにあふれた木米は、あたたかな尊敬の眼差しを向けられていたようです。
主な展示作品は、木米が気の置けない友人たちへ宛てた書状や、「古器觀」とも号した木米ならではの旧蔵品、木米が陶工として名を馳せる前に薫陶を受けた文人らに関する資料などです。交友を通して立ち上がる木米の人物像は、現代の私たちの心をも惹きつけてやみません。
木米は、中国的な教養のひとつとして若い頃より絵画も嗜んでいましたが、制作年の判明する作品は、とりわけ50代後半以降に集中しています。人生も晩年にあって、木米が芸術活動の幅を広げた背景には、身分や年齢を問わず京都に集った文人たちと刺激し合う中で、諸芸に秀でた文人としての生き方を改めて自覚した可能性が想像されます。
木米の絵画の特徴は、主題の大半を山水図が占めること、そして何より「為書」すなわち誰かの為に描いた作品が多いことが挙げられます。為書のある作品はいわば、その人物へ宛てた木米の私信のようなものです。例えば、くすんでいながらも、何とも言えない透明感にあふれた淡彩の山水図を前にして、一筋縄ではいかない木米の人柄へ親しく思いを馳せることもまた、木米画ならではの楽しみ方と言えます。
本章では、現存作例の中でも最初期の山水図や、茶の聖地・宇治の実景に基づく悠大な山水図、希少な花卉図や仏画の名品などを通して、多くの文人たちに愛された木米画の魅力を紐解きます。
[文人とは?]
木米が生きた時代の日本における「文人」は、中国の文人の詩書画三絶の世界に憧れをもち、中国の学問や芸術の素養を身に付けた人々です。彼らは独自の文人ネットワークを構築して活発に交流し、お互いの個性を尊重しながら思い思いに文人としての生き方を追求しました。
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