サントリー美術館 開館60周年記念展
2021年11月17日(水)~2022年1月10日(月・祝)
※各作品の出品期間は、出品作品リスト(PDF) をご参照ください。
※作品保護のため、会期中展示替を行います。
聖徳太子は推古天皇の摂政として、冠位十二階の制定や、十七条憲法の発布、「日出づる処の天子」と記した国書を携えたとされる遣隋使の派遣などを推進し、国家の礎を築いたことで知られます。一方で、仏教排斥派である物部守屋(もののべのもりや)との戦いに勝利し、仏教を広めたことから、日本仏教の祖としても篤く信奉される歴史上類まれな人物です。
太子により創建された大阪・四天王寺において、奈良時代(8世紀)にその生涯を絵画化した「聖徳太子絵伝」が創始されると、以降、太子信仰の広まりとともバリエーションに富む太子絵伝が作られ、その遺徳が顕彰されてきました。
本章では、太子絵伝とあわせて、太子が所持したと伝わる飛鳥時代の品々や、その事績を物語る作品をご紹介し、太子の足跡をたどります。
聖徳太子は日本に仏教を広めた人物として、没後まもなく信仰の対象となります。さらに太子は、中国天台の高僧・南岳大師慧思(なんがくだいしえし)の生まれ変わり、あるいは観音の化身とも見なされ、最澄や親鸞、一遍といった各宗派の祖師をはじめ、身分・男女を問わず多くの人々から崇敬されます。なかでも親鸞は、太子を「和国の教主」すなわち日本の釈迦と讃仰(さんぎょう)しました。
こうした太子信仰を背景に、幼い太子の二歳像(南無仏太子像/なむぶつたいしぞう)や父・用明天皇の病気平癒を祈る童子像(孝養像/きょうようぞう)、そして成人後この国の政治と仏教の興隆に尽力する姿(摂政像・講讃像/こうさんぞう)など、さまざまな絵画・彫刻作品が生み出されていきます。
本章では、多種多様な太子像の全貌と、諸宗派における太子信仰の広がりを示す作品をご紹介します。
大阪・四天王寺は、推古天皇元年(593)に聖徳太子が建立した日本最古の官寺です。仏教排斥派・物部守屋との戦いの際、太子自ら四天王像を彫り、もし戦勝の祈りが叶えば四天王のために寺を建立すると誓いを立てたことに始まります。
寛弘4年(1007)に、太子真筆と伝える「四天王寺縁起(根本本)」が寺内で発見されると、太子信仰を核に、観音信仰や浄土信仰そして未来記など、さまざまな信仰を包摂して繁栄する大きな契機となり、「太子の霊場」としての地位をより強固なものとしました。
四天王寺は、長い歴史のなかで戦禍や災害により何度も伽藍が失われましたが、人々の絶えることない太子への篤い信仰に支えられ、その都度再興を果たしています。
本章では、四天王寺の1400年をその名宝とともにご紹介します。
日本仏教の祖として崇められてきた聖徳太子ですが、明治時代になると国家の礎を築いた政治家としての側面がクローズアップされます。昭和に入り、偉大な功績を残し国民から敬愛される人物としてお札の顔に採用されると、以来太子は、7種もの紙幣に最多登場しています。笏を執るその姿は、現代における聖徳太子のイメージを決定づけたといえるでしょう。さらに、太子を主人公とするマンガ・山岸凉子作「日出処の天子」も人気を博し、より身近な存在となりました。
その一方、令和3年(2021)、四天王寺では100年に一度の御聖忌(ごせいき[注])に向け、新たに「聖徳太子童形半跏像」を造立しました。礼拝の対象としての太子の造形は今も生み出され続け、太子への祈りは、過去から現在、そして未来へと継承されていきます。
本章では、近代以降における太子のイメージをたどるとともに、脈々と歴史を重ねる四天王寺聖霊会(しょうりょうえ)の舞楽所用具など、現在の太子信仰ゆかりの作品をご紹介します。
[注]大阪・四天王寺では「遠忌」を「聖忌」と称します。
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