2018年4月25日(水)~7月1日(日)
※作品保護のため、会期中展示替を行う場合があります。
※各作品の出品期間は、出品作品リスト(PDF) をご参照ください。
中国ガラスの起源は、発掘状況や分析法の進歩の中で、いまだ明確な決着をみていないのが現状です。ただし、今のところ本格的なガラス製造は、春秋時代末期から戦国時代(紀元前5~前3世紀)の間に登場したと考えられています。西方からの将来品も多いなか、特に湖南省から発掘された100点ほどのガラス璧、湖北省で発見された越王勾践剣にはめ込まれていたガラス、あるいは隨州會侯乙墓から出土したガラス珠飾りなどが、分析の結果、中国が独自に開発した成分のガラスであったことが分かりました。よって、この時代に冶金技術が整い、それまで培われてきた手法と相まって、ガラス製造が確立したと推測されています。
この時代のガラス製品は、主に璧や剣首、印章など、儀式に関連する道具類や、装飾品としての珠、管、環などが多く、その数は千を超え、出土地域も甘粛省、遼寧省、河北省、山西省、山東省、河南省、湖南省、四川省、安徽省、福建省、広東省など、広範囲にわたっています。それらは貴石や玉の代用品として、邪気を払い、高貴な人々の身を守り、また副葬品としての役割を果たしました。多くは小ぶりなものですが、一つ一つに精緻な細工が施され、ときに金や銀に象嵌されることで、気高い美しさを放っています。
プロローグでは、古代の工人たちの素晴らしい手わざをご覧いただきながら、中国ガラスの始原をご紹介いたします。
西方の影響を受けつつも、独自に展開した中国のガラス製造は、清王朝の時代、飛躍的な発展を遂げました。康煕35年(1696)、第4代康煕帝は、紫禁城内の養心殿に玻璃廠(ガラス工房)を築きました。主に皇室内で使用するガラス製品のための工房の設置は、その後200年以上に及ぶ清朝ガラスの輝かしい発展の幕開けとなったのです。
工房の管理は、内務府大臣の管轄下である造弁処が担当し、技術指導はヨーロッパからの宣教師が当たりました。職人は、かねてからガラス製造の中心地であった山東省・博山や、貿易都市として栄えた広州から集められたと推測されます。特に博山の果たした役割は大きく、清代を通じて、ガラス原料の重要な供給地となりました。続く雍正帝の御世に、皇帝は工房を北京の離宮・円明園に移し、窯場は 6箇所に増加されます。遺物からみると、当時の器は主に吹きガラスによるもので、簡素ながら力強いフォルムが特徴です。この時代、公職者の着衣を飾る色とりどりの貴石が、次々と鮮やかな色ガラスに置き換えられたとも伝えられています。
しかし残念なことに、康熙・雍正時代のガラスとされる器は、決して多く遺っていません。成分バランスの問題から生じるクリズリングと呼ばれるガラスの病気のせいで、劣化が進んでいる場合が多く、終には自己崩壊してしまうからです。本展ではおそらく雍正年製のガラス器から3点が出品されます。皇帝のガラスの萌芽を感じ取っていただければ幸いです。
康煕帝の御世に政治的な基盤が整備された清王朝で、学術や芸術が華々しく花開いたのは、第6代乾隆帝の時代です。およそ60年にわたる治世に、乾隆帝が絵画や諸工芸の発展に果たした役割は絶大なもので、ガラス工芸も栄華を極めます。
乾隆5年(1740)、二人のフランス人宣教師が中国に到着すると、乾隆帝は彼らをガラス製造に当たらせます。このガブリエル・レオナール・ド・ブロサール Gabriel Léonard de Brossard(中国名:紀文 Ji Wen)と、ピエール・ダンカーヴィル Pierre d’Incarville(中国名:湯執中 Tang Zhizhong)の助言もあり、乾隆帝はより生産性の高い窯を新たに増設させました。ヨーロッパの知識を積極的に取り入れる皇帝の情熱は、中国の職人たちを大いに刺激し、清朝皇帝のガラスは最盛期を迎えます。透明素材に加え、多彩な不透明ガラスや、二層、三層に重ねる色被せガラスも登場し、様々な絵柄や情景が浮き彫りにされていきました。貴石や大理石のようなマーブル・グラスや、金の砂を含んだようなアベンチュリン・グラス、そしてエナメル彩色もまた、この頃発展を遂げています。
皇帝のガラスの最大の魅力は、重厚で極めて優れた彫琢と、独特の色彩感覚でしょう。玉や水晶、象牙などの素材を重んじ、儚さや壊れやすさを好まない中国の伝統的な造形感覚と匠の技が、他のガラス工芸に類をみない独自の美を生み出したのです。皇帝のガラスの進化は、帰郷した職人たちによって民間にも伝えられ、中国のガラス製造全体の発展につながりました。本章では、ヴァラエティ豊かな清朝ガラスの精華をご覧いただきます。
19世紀後半、中国や日本の美術品が、ヨーロッパの絵画や美術工芸に与えた影響は、今日よく知られています。フランス・アール・ヌーヴォー期の芸術家エミール・ガレ(1846-1904)もまた、その中の一人です。
フランス東部の古都ナンシーで、ガラス、陶器、家具の分野で活躍した彼は、独自の芸術様式を確立する上で、エジプト、イスラム、中国、日本など、様々な異国の美術のエッセンスを貪欲に取り込みました。中でも、ガレと中国の工芸品との関連は、特に1889年のパリ万博以降の作品に、如実に表れています。同展で発表した模玉ガラスについて、ガレは出品解説書のなかで玉からの影響を明言しています。黒いガラス・シリーズなどもインスピレーションを受けた可能性が高いでしょう。ガレはこれに先立ち、1885年4月、2週間ほどベルリンを訪問し、工芸美術館に所蔵される300点以上の清朝のガラスを入念に調査しています。さらに遡れば、すでに1871年、東洋コレクションで名高いロンドンのサウスケンジントン博物館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)を訪れ、詳しく研究したとも伝えられています。
またガレは、清朝の鼻煙壺の収集も行っていました。ガレ筆の美しい鼻煙壺の水彩画(1890年)も遺っています。2015年には、鼻煙壺3点を含むガレ旧蔵の中国と日本の工芸品22点がオークションに出品されました。それらは彼の東洋美術コレクションのほんの一部ですが、彼の作品と見比べたとき、いかにガレが素材感に関心を示していたか、どれほど丹念に観察しながら創作していたかをうかがい知る重要な資料です。
本章では、ガレが見た可能性のある、あるいはそれと同種の清朝のガラス器や鼻煙壺、そして中国の工芸品とともに、ガレ作品も併せて紹介し、その影響関係を垣間見る試みです。ガレをも魅了した清朝ガラスの美をお楽しみください。
鼻煙壺は、嗅ぎたばこを入れる器です。蓋の裏側に小さな匙が付いていることが多く、たばこを掬い取れるように出来ています。嗅ぎたばこは粉末状で、嗜好者は好みの香料や薬草を混ぜて作り、吸い込んだり、鼻孔にすりつけて嗅いだりして楽しみました。アメリカ大陸原産のたばこは16世紀半ばごろにヨーロッパに伝わり、17世紀後半に中国にも伝来したといいます。清朝の宮廷内で大流行した後、一般社会にも普及しました。
その容器である鼻煙壺もまた、実用品でありながら、愛玩品やステイタス・シンボルともなり、磁器やガラス、玉や貴石など様々な素材を用い、贅を尽くして作られました。清朝宮廷内のガラス工房では、皇帝の専用品や、貴族や外国使節への下賜品としての鼻煙壺が製作されたのです。手のひらにすっぽり入るほどの鼻煙壺には、清朝工芸の技と粋が凝縮されています。清朝皇帝のガラスは、アヘン戦争(1840-42)後復興することはありませんでしたが、今に遺る小さな鼻煙壺たちは、その栄華をよく伝えてくれます。最後に、華麗で瀟洒な清朝ガラスの小宇宙をご覧ください。
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