2017年9月16日(土)~11月5日(日)
※作品保護のため、会期中展示替をおこないます。
※各作品の出品期間は、出品作品リスト(PDF) をご参照ください。
狩野派は室町時代から幕末までの約400年、画壇の覇者としての地位を保ち続けました。始祖・正信の時代には傍流にすぎなかったこの画派を中央へと押し上げたのは、二代目の元信です。元禄4年(1691)に刊行された京狩野(きょうかのう)家三代目当主・狩野永納(かのうえいのう・1631~97)の『本朝画伝(ほんちょうがでん)』には、狩野派は元信の代に「天下画工の長(おさ)」となったと記されており、狩野派内部において、元信が狩野派の確立者として認識されていたことが分かります。その急成長を端的に物語るのが、元信と弟子たちによって制作された障壁画です。寺院の発注による襖や壁貼付など、建築の一部に描かれる障壁画は、建物の建設と密接に関連した大規模事業であり、棟梁としての元信の力量が試される場でもありました。障壁画の多くは現在、掛軸へと改装されていますが、その明晰な構図や描写からは、元信が見事な空間演出によって発注主の期待に応えた様子が伝わってきます。また、元信自らが筆を執ったとされる作品群は、棟梁としての才覚だけではなく、絵師としても、他の追随を許さないほどの優れた画技を持っていたことを示しています。本章では元信および元信工房の記念碑的作品となった障壁画の数々をご紹介します。
中国の名家たちの作品は、室町時代を通じて、人々の憧れであり続けました。とくに足利将軍家が蒐集した中国絵画のコレクションは、日本の絵師たちによる漢画制作の規範となっていきます。具体的には馬遠(ばえん)、夏珪(かけい)、牧谿(もっけい)、玉澗(ぎょくかん)など、主に南宋時代の画家たちが選ばれ、その構図や描法を真似て描くことが求められました。このような「筆様」による制作は、もととなった名家の名前を取って「馬遠様(よう)」、「夏珪様」などと呼ばれました。ただしその実態は個々の絵師による個人差があり、同じ中国画家を手本としていても、それぞれの画風にはかなりの幅が生じていました。そこで元信は「筆様」ではなく、真体(しんたい)、行体(ぎょうたい)、草体(そうたい)の三種の「画体」を創り出し、元信様式としてマニュアル化することで、一定の質を保った作品群を生み出す土壌を創り上げます。その際、真体は馬遠と夏珪、行体は牧谿、草体は玉澗などが参考にされました。また、人物や花鳥、樹木など個別のモティーフを抜き出し、自身の作品に取り入れた例も見られます。
本章では南宋絵画やその伝統を受け継ぐ呂紀(りょき)らの明代絵画など、日本で憧憬されてきた中国絵画の名品をご覧いただきます。
元信による「画体」の確立は、その後の狩野派のあり方を大きく変えました。「画体」は、緻密な構図と描線による真体、最も崩した描写である草体、そしてその中間にあたる行体の三種からなり、書道の楷書、行書、草書に倣って名付けられました。それまでの「筆様」とは違い、いずれの「画体」も元信流に再構成されており、一人の絵師の様式として統一が取られています。そして、元信の血族や門弟たちがこの「画体」を学ぶことで、元信スタイルで描くことのできる絵師が複数生まれ、組織的な集団制作が可能となりました。このことが狩野派を専門絵師集団として発展させていくことになります。
また、「画体」は建物内の部屋の格式とも深く結びついており、空間演出の上でも重要な役割を果たしました。たとえば寺院や城郭などの障壁画では、公式な接客空間には真体、日常的に使用する私的生活空間には行体や草体が多く用いられました。
本章では父・正信の代表作と、元信が創成した真・行・草の「画体」に基づく優品を展示します。
元信は漢画の分野において「画体」の確立という大きな功績を残しますが、一方で、やまと絵の分野においても特筆すべき活躍を見せています。父・正信の時代には、狩野派は漢画を専門とする絵師として理解されていましたが、元信の代になり、それまでは土佐派が主流を担っていたやまと絵の領域にも進出します。和漢両方の画題や手法を使いこなせることは狩野派の宣伝文句となり、『本朝画伝』においても「狩野家は是れ漢にして倭を兼(かぬ)る者なり」と記されています。
漢画系絵師らしい明快で力強い構図や線描と、やまと絵を思わせる金泥や濃彩を組み合わせた絵巻や扇絵は、元信による和漢融合の最たる例といえます。とくに贈答用品として不特定多数の需要者が見込める扇絵は、元信工房を支える大きな力となりました。また扇絵や「富士曼荼羅図」などに見られる表情豊かな人物描写は、元信がやまと絵風の風俗画にも長けていたことを伝えています。
本章では絵巻や扇絵などを中心に、和漢を兼ねた元信の新たな挑戦に焦点を当てます。
仏画は平安時代より絵仏師が主に手掛けてきた専門領域であり、奈良や京都の寺院などが制作の拠点とされてきました。正信や元信はこの仏画も自身のレパートリーのひとつとしていきます。華やかな彩色や世俗的な面貌表現は、それまでの伝統的な仏画とは一線を画すものであり、その独特な表現は仏画というジャンルに新しい風を吹き込みました。
本章では仏画や神道絵画などの宗教的主題を扱った正信、元信の作品をご紹介し、彼らが新たな分野に活躍の場を広げていく様子を見ていきます。
多様な画題、描法、画面形式を自由に駆使して注文主の希望に応える元信の作品は、幅広い人々に愛されました。父・正信は室町幕府や五山禅宗寺院などを主なパトロンとしていましたが、元信はさらに禁裏や公家衆、および当時力をつけてきていた上層町衆の仕事も手掛けるようになります。とくに注文主の姿を描いた肖像画や、発願者によって奉納された絵馬などからは、パトロンたちとの密接な関係がうかがえます。また、元信自身も積極的に顧客獲得に努めており、当時畿内で勢いのあった武将・木沢長政(きざわながまさ)への取りなしを依頼する「玉雲軒宛書状(ぎょくうんけんあてしょじょう)」が残っています。
支持層の拡大は、元信とその弟子たちによる多角的な制作活動を支える原動力となりました。本展を締めくくる本章では、元信をめぐるネットワークの拡がりに注目し、狩野派が画壇の長としての地位を確立していく姿を追います。
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