秋田蘭画にまつわる10のトリビアを特設サイトでご紹介しています!はじめて秋田蘭画を目にする方から通の方まで楽しめる、充実の内容です。作品鑑賞のポイントも紹介していますので、展覧会鑑賞前にぜひご覧ください。
2016年11月16日(水)~2017年1月9日(月・祝)
※作品保護のため会期中、展示替を行ないます。
※各作品の出品期間は、出品作品リスト(PDF)をご参照ください。
直武は、寛延2年(1749)に秋田藩角館城代の槍術指南役(そうじゅつしなんやく)の第4子として生まれました。角館は秋田藩主佐竹氏の一門である佐竹北家が治めた地で、同年に第6代角館城代となる佐竹義躬が生を受けました。前年の寛延元年(1748)には江戸の秋田藩邸で佐竹曙山(名・義敦(よしあつ))が生まれており、秋田蘭画の描き手たちは近しい年齢だったことがわかります。
武家のたしなみとして書画を学んだ直武は、若い頃より画才を示したといわれ、秋田藩のお抱え絵師である武田円碩(たけだえんせき)から狩野派を学びました。明和2年(1765)の「大威徳明王像図(だいいとくみょうおうぞうず)」は、直武17歳の時に依頼を受け制作した絵馬であり、早くからその画力が認められていたことがうかがえます。浮世絵風の作品なども伝わっており、幅広いジャンルの絵画を学んでいたようです。
本章では、秋田蘭画を描く以前に制作したと考えられる直武らの初期作品を中心に展示します。
安永2年(1773)7月に本草学・戯作・発明など多彩な才能を発揮したことで知られる平賀源内が鉱山開発のため秋田藩に招かれました。この出来事が直武にとって大きなターニングポイントとなります。ヨーロッパの文化や事情に通じていた源内が角館滞在中に直武へ西洋画法を教えたという伝承がありますが、近年の研究では疑問も投げかけられています。2人の出会いについて確かなことは不明ながら、源内が江戸に戻った後、直武は藩主佐竹曙山より「銅山方産物吟味役(どうざんがたさんぶつぎんみやく)」の命を与えられ、同年12月に源内のいる江戸へ派遣されることになります。
江戸で直武が出会ったのが、最新の科学知識でした。第8代将軍徳川吉宗による漢訳洋書輸入の規制緩和以降、西洋の学問=蘭学への関心が高まります。多士済々の人物たちと人的ネットワークを持っていた源内の周辺には、杉田玄白(すぎたげんぱく)ら当代一流の蘭学者もいました。直武は源内の交友を通じて、杉田玄白、前野良沢(まえのりょうたく)、中川淳庵(なかがわじゅんあん)らによる日本初の西洋医学書の翻訳『解体新書』の挿絵を描くことに抜擢されます。『解体新書』の刊行は安永3年(1774)8月、直武が江戸に出てわずか8ヶ月後のことでした。
直武は西洋の図像を手本に遠近法や陰影法など西洋画法を身につけていくことになります。本章では、蘭学資料や洋書など直武が対面したヨーロッパの図像を通じて、秋田蘭画の源流のひとつである西洋絵画の世界を探ります。
享保16年(1731)、長崎に来航した中国人画家沈南蘋(しんなんぴん)による写実的な画風は、当時の画壇に非常に大きな影響を与えました。吉祥性に富み、緻密で華麗な画風は全国に伝播し、南蘋派として武士階級はじめ広く受け入れられていきます。南蘋派は、西洋画法とともに秋田蘭画の源流のひとつとされています。モチーフや画題、構図、細やかな描写など、南蘋派と秋田蘭画には共通項や類似点が多く見出されています。
直武が滞在した安永年間は江戸で南蘋派が大いに流行していた時期で、源内周辺には江戸に南蘋風花鳥画を広めた宋紫石(そうしせき・1715~1786)がおり、直武は宋紫石から様々な技法を学んだようです。
南蘋派が流行したのは秋田藩も例外ではありません。直武と近しい時代では、秋田藩の横手城代戸村義敬(とむらよしたか)・義通(よしみち)親子や2人をパトロンとして江戸や長崎で絵を学んだ佐々木原善(ささきはらぜん・生没年不詳)があげられます。秋田藩での南蘋派の受容は、秋田蘭画を考える上で重要なテーマのひとつでしょう。
本章では、江戸や秋田で活躍した南蘋派の作品をご紹介し、秋田蘭画のもうひとつの源流である東洋絵画の世界をみていきます。
西洋と東洋の世界に向き合い、ヨーロッパの図像や南蘋風花鳥画の表現を学んだ直武は、拡大した近景と緻密な遠景を配した構図など独特の特徴をもつ秋田蘭画の画風にたどり着いたと考えられています。
東西美術が融合した秋田蘭画は、秋田藩主の佐竹曙山、角館城代の佐竹義躬ら直武周辺の人物たちへも波及しました。佐竹曙山は、幼少より絵を得意とし、安永7年(1778)には日本初の西洋画論である「画法綱領(がほうこうりょう)」「画図理解(がとりかい)」を著しています。また、大名の間で流行していた博物学を愛好し、蘭癖大名(らんぺきだいみょう)であった熊本藩主細川重賢(ほそかわしげかた)や薩摩藩主島津重豪(しまづしげひで)らとつながりがありました。佐竹義躬は、絵画や俳諧に通じ、角館生まれの直武とは親しい交流があったようです。直武は、安永6年(1777)に秋田に一時帰国し、翌年に曙山と再び江戸に上ることになりますが、この間に秋田藩内へ蘭画の画法が伝わったともいわれています。
東西のリアリズムが結びついた実在感のある描写、近景を極端に拡大し細やかな遠景を配する不思議な空間表現、舶載のプルシアンブルーを用いて表された青空の色彩など、秋田蘭画は今なお見るものを魅了します。
本章では小田野直武や佐竹曙山らの高い画力が結晶した秋田蘭画を特集し、その軌跡を展観します。
安永8年(1779)、直武は秋田藩より突然に謹慎を命じられ、帰郷しました。同じ頃には平賀源内が人を殺めた咎で捕まり、獄死しています。そして、安永9年(1780)5月、直武は数え年32歳で亡くなりました。直武が謹慎を命じられた理由や死因の詳細はいまだ謎に包まれています。佐竹曙山も天明5年(1785)に死去し、源内・直武・曙山という秋田蘭画創始に関わった主要人物が相次いで世を去りました。
直武の制作期間は短いものでしたが、直武に学んだと考えられている人物として司馬江漢があげられます。江漢は、源内や蘭学者と交流し、鈴木春信(すずきはるのぶ)から浮世絵を、宋紫石からは南蘋風花鳥画を学び、そして直武からも絵を習ったとされています。秋田蘭画が伝統的な画材で描かれたのに対し、江漢は銅版画・油彩画といった新たなジャンルを切り開いていきました。
秋田蘭画に再び光があてられるようになったのは、20世紀以降のことです。昭和5年(1930)には秋田生まれの日本画家平福百穂(ひらふくひゃくすい)によって『日本洋画曙光』が著され、本格的に秋田蘭画の再評価が進んでいきます。
本章では司馬江漢の作品など江戸の洋風画の一端をご紹介します。あわせて秋田蘭画の評価をめぐって、関連する人物や作品を展観しながら秋田蘭画の行方をたどります。
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