2016年9月10日(土)~10月30日(日)
※作品保護のため、会期中展示替を行ないます。
※各作品の出品期間は、出品作品リスト(PDF)をご参照ください。
※本展覧会は、姫路市立美術館(2016年11月12日~12月25日)、細見美術館(2017年1月3日~2月19日)に巡回します。
俵屋宗達、尾形光琳らが中心となり京都で隆盛した琳派。光琳の活躍から約100年後、江戸の地で琳派の再興を図ったのが酒井抱一です。
抱一は大名家の名門・姫路酒井家の次男として江戸に誕生。のちに出家して酒井家を離れ、後半生を画家として過ごします。抱一は京都の琳派様式からさらに写実的で洗練された画風を描くようになり、のちに「江戸琳派」と呼ばれる作風を確立しました。
序章では、其一の師・抱一の優美な作品をご紹介するとともに、抱一の最初の弟子で其一とも関係の深い、酒井家家臣の鈴木蠣潭(れいたん)にも光を当て、其一画が育まれた土壌を探ります。
其一は寛政8年(1796)、江戸中橋の紫染め職人の家に誕生したと通説では言われています。文化10年(1813)、数え年18歳で抱一に入門。4年後に兄弟子で酒井家家臣の鈴木蠣潭の急死を受け、養子に入り鈴木家の家督を継ぎました。
当時、抱一の隠居所「雨華庵(うげあん)」には画塾として多くの弟子が集っていましたが、其一は早くから師・抱一の厚い信頼を得、重要な仕事を任されることも多かったようです。師弟の合作もたびたび行なわれ、まさしく一番弟子として最も抱一に近い存在でした。
第1章では、其一が抱一に師事した文化10年から文政年間末期(1813~29)頃までの作品を展示します。これらの初期作品からは、抱一譲りの伸びやかで美しい花鳥図はもとより、のちに大きく開花する大胆で力強い作風の萌芽、また其一がすでに幅広い画題を手掛けていたことなどがうかがわれます。抱一に出会い、こまやかな師弟関係を築いたことが、其一の画業展開にとり大きな足掛かりとなったのです。
文政11年(1828)、33歳の時に師の抱一が没し、其一は大きな転機を迎えます。抱一の正式な後継者は、抱一の養子で雨華庵を継いだ酒井鶯蒲(さかいおうほ・1808~1841)でした。其一は12歳年下の鶯蒲を支えつつ、次第に抱一画風を離れ、独自の作風を展開していきます。その傾向は30代半ばから40代半ば頃まで、「噲々(かいかい)」という号を好んで署名や落款に使った時期に顕著に見出すことができます。
この時期に其一はさまざまな試みを行ないました。その中でもきわめて躍動感に溢れるのが、宗達や光琳の作風を意識しながら大胆にアレンジした作品です。とくに「風神雷神図襖(ふうじんらいじんずふすま)」(東京富士美術館)は、宗達以来、琳派の主要な画家が描き継いだ画題を屏風ではなく襖の大画面に再構成したもので、二神の周りを取り巻く墨のにじみを生かした暗雲が妖しい雰囲気を醸し出しています。「夏秋渓流図屛風(なつあきけいりゅうずびょうぶ)」(根津美術館)は「噲々」時代を通じて最も豪奢で強烈な印象を残す代表作品の一つです。檜の樹林も琳派がよく手掛けた主題ですが、其一はきらびやかな金箔地に、無数に増殖するかのような緑の苔や目にも鮮やかな青い水流を取り合わせ、同時代の葛飾北斎(かつしかほくさい)や歌川国芳(うたがわくによし)の作品とも響き合う独創的な絵画空間を描き出しました。
このように、琳派の伝統的な画題や技法を自在に操り、幕末の時代性とも親和しながら、明快で鮮烈な作品に意欲的に取り組んだ其一は、もはや抱一の画風に囚われることなく、新たに其一様式を確立したといえるでしょう。
其一は40代の後半には家督を長男の守一(1823~1889)に譲り、この頃からさらに多様な作風へ挑戦し続けていきます。「菁々(せいせい)」と号した晩年の約15年間、その筆勢は留まることがありませんでした。「朝顔図屛風(あさがおずびょうぶ)」(アメリカ・メトロポリタン美術館)をはじめとして、鮮麗な色彩で見る者を圧倒する作品を次々と手掛ける一方、「林檎図(りんごず)」(愛知県美術館/木村定三コレクション)のように、写実性の追求にも挑んでいます。
とくに「朝顔図屛風」は、かの有名な光琳の「燕子花図屛風(かきつばたずびょうぶ)」と同様の色彩構成を取りながら、其一の色彩や造形に対する鋭敏な感覚が明瞭に発揮された大画面作品といえます。また「藤花図(とうかず)」や「朴に尾長鳥図(ほおにおながどりず)」(ともに細見美術館)などの諸作品は、琳派風ながら透徹とした写実性も兼ね備え、清新なその作風は近代日本画を予見するかのようです。
そのほか其一には、描表装(かきびょうそう・表装まで絵画化した一種のだまし絵)を用いた「夏宵月に水鶏図(なつよいづきにくいなず)」(個人蔵)のように、虚実がない交ぜになる錯覚を企図した洒脱な作品がしばしば見受けられます。また、能が式楽として広く行き渡った時代を反映するとともに、能に造詣の深かった光琳を慕ってか、能や謡曲に取材した作品に優品が多いことも特筆されます。さらに、きわめて精緻に描き込まれた仏画も手掛けるなど、縦横無尽にその手腕を発揮しました。
安政5年(1858)9月10日、其一は63歳で生涯の幕を閉じます。大名家や豪商に愛され、思いのままに筆を揮った晩年。幕末に向かう動乱の江戸で、其一の活躍は最後まで絢爛な軌跡を描き、人々を魅了し続けました。
其一は多くの抱一門弟と競い合い、江戸琳派を盛りたてました。また其一自身も弟子の育成に力を注ぎ、江戸琳派の中でも「其一派」というべき最大勢力を築き上げます。江戸琳派は明治維新後も存続しますが、その継承には其一派の存在が大きく寄与していました。
抱一や其一の作品は、夏目漱石の小説にもたびたび取り上げられるなど、すでに明治期より江戸の美意識を色濃く伝えるものとして高い評価を得ていました。江戸琳派の後継者たちはその残影を伝えるべく、近代社会にふさわしい変容を遂げながら昭和中期まで命脈を保ったのです。
第4章では其一を取り巻く抱一門下のほかの画家や、其一派の作品を取り上げ、近代以降の江戸琳派の展開を辿ります。
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