2016年2月24日(水)~4月17日(日)
※作品保護のため会期中、展示替をおこなう場合があります。
※各作品の出品期間は、出品作品リストをご参照ください。
※本展は大阪市立東洋陶磁美術館(4月29日-7月31日)、瀬戸市美術館(10月1日-11月27日)へ巡回します。
宮川香山(虎之助:1842~1916)は、天保13年(1842)、京都で陶業を生業とした眞葛長造(1797~1860)の四男として生まれました。長造は、青木木米(あおきもくべい・1767~1833)に就いて製陶を学び、仁清写しなどの茶器制作を得意としていました。長造は、後に真葛ヶ原に築窯したことから安井宮(やすいのみや)より「眞葛焼」の称を、華頂宮(かちょうのみや)より「香山」の号を与えられています。父・長造の下で製陶を学んだ虎之助は、万延元年(1860)、父や兄が亡くなったため若くして家業を継ぎ、当初は茶道具などを制作していました。明治元年(1868)には、岡山藩の家老で茶人の伊木忠澄(いぎただずみ)から請われ、備前虫明(現在の岡山県瀬戸内市邑久町虫明)へ赴き、制作の指導にあたっています。そして明治3年(1870)に横浜に移住、野毛山に窯を築きました。あくる明治4年(1871)には、太田村不二山下(現在の横浜市南区庚台)にて、本格的に陶磁器の制作を開始します。その窯が、明治、大正、昭和にわたって横浜に花開いたやきもの「眞葛焼」の始まりです。
第1章では、宮川香山の初期の作品をご紹介します。京都時代・虫明時代の茶道具類、さらには横浜眞葛焼 草創期の、粉彩(ふんさい)の作品もご覧いただきます。
開港して間もない横浜へ移住し、陶磁器の制作を始めた宮川香山は、すぐに高い評価を得ました。そして、明治9年(1876)に開催されたフィラデルフィア万国博覧会や、明治11年(1878)に開催されたパリ万国博覧会など、国内外の博覧会・展覧会で受賞したことによりその作品は賞賛を浴び、一層人気を集めるようになります。その中で香山独特の表現方法として確立されたのが、陶器の表面をリアルな浮彫や造形物で装飾する「高浮彫(たかうきぼり)」という新しい技法でした。当時、海外で好まれていた薩摩焼の金襴手には多くの金が使用されていたことから、高額になること、また貴重な金が海外に流出してしまうことを防ぐなどのために、独創的な技法「高浮彫」は生み出されました。この緻密で装飾性の高い技法によって、鶉・鷹・鳩などの鳥、桜・蓮・葡萄などの植物、猫・熊などの動物、鬼や擬人化された蛙など、いろいろなモチーフが立体的にそして写実的に表現されています。
今日、日本国内にあるこうした高浮彫作品は、その多くが海外からの貴重な里帰り品です。香山による新たな創造に、高い技術が相まって生まれた独自の世界は、日本陶芸史上において燦然たる輝きを放っています。
明治10年代半ば頃から、香山は新たに釉薬と釉下彩の研究に取り組み、釉下彩をはじめ、中国清朝の磁器にならった青華(せいか)、釉裏紅(ゆうりこう)、青磁(せいじ)、窯変(ようへん)、結晶釉(けっしょうゆう)などの作品を次々と世に送り出し、眞葛焼の主力製品を陶器から磁器に切り替えていきます。眞葛窯の経営を嗣子・半之助(はんのすけ)(二代宮川香山:1859~1940)に継がせ、自身はさらに古陶磁や釉薬の研究開発に打ち込みました。
釉下彩をはじめとする新たな作品も、パリ万国博覧会(明治22年、1889)やシカゴ・コロンブス万国博覧会(明治26年、1893)など国内外の博覧会でまたも高い評価を獲得しました。こうした功績が認められ、明治29年(1896)には、陶芸界では二人目の帝室技藝員(ていしつぎげいいん)に任命され、名実ともに当時の日本陶芸界の第一人者となっていきます。以後も積極的に様々な技法の研究に取り組み、新たな挑戦を続けていましたが、大正5年(1916)5月20日、日本の陶芸史に偉大な足跡を残した宮川香山は、その生涯を閉じました。
第3章では、優美で華麗な「釉下彩・釉彩の眞葛焼」を中心にご紹介いたします。
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