2013年7月3日(水)~8月25日(日)
※作品保護のため会期中、展示替をおこなう場合があります。
※各作品の展示期間については、美術館にお問い合わせください。
各画法を折衷した文晁の画風には、「八宗兼学(はっしゅうけんがく)」とよばれる貪欲なまでの学習態度が反映されており、彼の画風を定義することは容易ではありません。それはまさに〈様式のカオス〉とでも呼ぶべき様相です。本章では、多種多様な画風を吸収する意欲に満ちた、文晁の作画エネルギーをご覧いただきます。
文晁は10歳の頃、加藤文麗(ぶんれい)(1706-1782)に入門します。文麗は木挽町(こびきちょう)狩野家三代周信(ちかのぶ)の門人で、正統な狩野派の流れを汲む絵師でした。文麗の画風は、当時の江戸狩野派によく見られる荒々しい運筆を特徴とし、文晁の初期作にも影響を与えています。そして、17、18歳頃には中山高陽門下の渡辺玄対(げんたい)(1749-1822)に師事します。玄対は南蘋派(なんぴんは)や南宗画・北宗画の折衷様式を学んでおり、文晁が描く南蘋派風の花鳥画や、南北折衷的な山水画の基礎は、玄対によって築かれたといえます。画業の草創期に様々な画風に触れたことが、後に文晁の幅広い画域を形成していくことになります。
天明8年(1788)、文晁は田安徳川家に奥詰見習として五人扶持を受けて出仕し、寛政4年(1792)、老中松平定信(1758-1829)に認められて近習となります。定信は八代将軍徳川吉宗の次男・田安宗武の子で、白河藩主・松平定邦の養子となり、白河藩主を継いだ後、老中首座を勤めました。寛政5年(1793)、文晁は定信の江戸湾岸巡視に同行し、各地の風景の写生を担当します。この時の写生をもとに制作された風景画には、正確な遠近表現や立体感を示す彩色法が用いられ、西洋画学習の成果がうかがえます。また、寛政8年(1796)、文晁は定信の命を受け、全国の古社寺や旧家に伝わる古文化財を調査します。この調査時の模写と記録は、全85巻の刊本『集古十種』として刊行されました。多くの名品を模写したことは、文晁の画業に大きな影響を与えました。
松平定信は、古文化財の保存・整理分類からさらに一歩進めて、過去に失われた作品の復元に着手します。「石山寺縁起絵巻」は正中年間(1324-26)に七巻本として企画されましたが、江戸時代に至るまで、巻六・七は詞書のみが存在し、絵を欠いていました。文化2年(1805)、石山寺座主尊賢(そんけん)の強い願いに定信が応え、お抱え絵師の文晁によって補完されました。近年、重要文化財「石山寺縁起絵巻」(石山寺蔵)を文晁が写した模本が当館所蔵となりました。本章ではサントリー美術館本「石山寺縁起絵巻」を修復後初公開するとともに、一切の私意を加えず古様に従い補完の構想を練った文晁の挑戦をご覧いただきます。
文晁を語る上で欠かせない要素の一つに、幅広い人脈があります。『集古十種』編纂のために訪れた大坂では、当時の文化ネットワークの中心人物であった木村蒹葭堂と出会います。文晁は後に蒹葭堂の肖像を描いており、親しい交流は蒹葭堂が没するまで続きました。また、絵師の酒井抱一、狂歌師・戯作者の大田南畝(なんぽ)、戯作者の山東京伝とも親しく交わり、様々な合作を残しています。加えて、文晁は教育者としても優れており、渡辺崋山など、多くの門人たちを育てました。文晁をめぐる多様な交友関係の広がりは、文晁という人物の魅力を伝えています。
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